零.プロローグ




 春はしあわせな季節だ。
 見上げる空は青く、身をまとう空気は暖かく、生き物はみんな活発に活動し出す。
 そんな中でも桜は殊更、この刻を待ち焦がれていたとばかりに、次々と花開き始める。


 ほのかなピンク色に色づく街を、僕はこれといった目的もなく歩いてまわる。 これは僕が大怪我で入院していた頃から、心待ちにしてきたことだからだ。 僕の住む街は自然が多く、街路には桜が植わっているところも多い。
 空調の効いた清潔な病室の中で数ヶ月、「春が来たらあの桜の中を歩きたい」、そう想ってきた。
 だがこうして念願叶ったものの、すれ違う人は皆、僕の顔の傷跡を見てギョッとする。 それが少しだけ悲しくて、今更ながらに、何か歩く目的を作ろうと考えた。 病院……は先日あいさつに行ったばかりだし。商店街……に行ってもお財布は持ってないし。
「そうだ、学校に行こう」
 あと三日で、僕の通う高校は新学年、新学期が始まる。 数ヶ月もご無沙汰になっていた校舎の様子を、下見してみるのも悪くない。
 僕は、うろ覚えな足どりで、学校へと向かった。

 家から十五分ほどのゆるやかな坂の上に、矢幡野高校はある。 単純な直方体の、でも端から端まではかなり長い校舎。 塀越しに中を眺めると、無人の校舎にも春は降り注いでいた。
 門は開放されているようなので、安心して敷地内に足を踏み入れる。 門から見て、校舎を挟んで向こう側では、運動部が部活をしているような物音や声がする。 だが校舎の窓を見ると、どれもしっかり閉め切られていて薄暗く、やはり校舎内には誰もいないのだとわかった。
「校舎には入れないよなぁ、やっぱり……」
 かと言って、部活動の場となっている校庭に何の用事もなく顔を出すのも気が引ける。 仕方なく、校庭とは反対側の、校舎手前側のこの路地だけ一通り歩いて帰ることにした。
 この路地は校舎に沿って一本道になっていて、突き当たりに見える場所で迂回すれば校庭側に出ることができる。 塀の側には植え込みやプランターが綺麗に並んでいるが、やはり、何もないとわかっていつつも、 校舎を覗きながら歩いてしまう。 カーテン一つ微動だにしない、無人の校舎。 ここも三日後には、たくさんの生徒で溢れかえるのだろう。 その中に、こんな傷だらけの自分は溶け込むことができるだろうか。 そんなことを考えながら、校舎の片端に到着した。 校庭のほうへは廻らないので、あとは同じ道を引き返すだけ……なのだが。 ふと塀側に目をやると、そこには四角い小さな貯水池が作られていた。 水は深緑に濁っていて中がよく見えないが、水面には薄いピンク色の花びらがまばらに浮かび、揺れている。桜だ。 この花びらはどこから降ってきたのだろう? と、顔を上げる。
「あ、あれか」
 貯水池から少し離れた東上方に、“見事”とは言えないまでも、慎ましやかに美しい桜の木が立っていた。 花びらは風に吹かれて、ちょうどこちら側へひらひらと舞い降りてくる。
 ――そんな桜の木の下に、桜よりももっと深い髪の色をした、一人の女の子が立っていた。

 その子の長い髪も桜同様、風に吹かれるとちょうどこちら側へさらさらと舞う。 僕がその子に視線を落とした瞬間すでに、その子は僕のほうを見つめていた。 いや、見つめるというよりは、驚いて凝視していると言ったほうが正しいか。 ……そうして、目が合った。
「――――――」
 春よりも濃い空気が凝縮された二拍をおいて、彼女は口を開いた。
「つ……都築く……ん……?」
「えっ?」
 ドキッとした。彼女が僕を凝視していたのは、僕の傷のせいだけだと思っていたからだ。 この子は、僕を知っているのか。
「どうして、俺の名前を知ってるの?」
「え……わたし、去年、一年生のとき同じクラスだった……」
「あ、そうか。えーっと……」
 どう説明しようか。
 ――僕は、この傷を負った事故のときのショックで、記憶障害を起こしている。 忘れてしまったのは、この学校の中で出会った人、ものごと、全て。それに加えて学校外でのことも、去年この学校に入学してから起きたことに関しては、断片的にしか覚えていない。 自分を知っているこの子に「君の事は覚えてない」なんて言うのは、どうにもやりづらい。
 そんなことを思って一瞬、沈黙したすきに
「都築くん、もう体のほうは大丈夫なの?」
 そんな葛藤をなんでもないことのようにスキップさせて、彼女は僕の体を気にかけてきた。 そうか、クラスメイトなら僕の事故のことも知ってるんだよな。
「あ、ああ、うん。二週間くらい前に退院したんだ。  ……見ての通り傷は残っちゃったんだけどね。もう普通に運動もできるよ」
「ケガ……去年の十一月くらいだったよね……。よかった、よくなって……」
 さっきから呆然とした表情で僕を見てきた彼女は、ここでようやく口元に笑みを浮かべた。 それに対し、僕も“ありがとう”と小さく微笑み返す。
 そうしてなんとなくホッとして、ようやくさっきの葛藤に決着をつける余裕が出てきた。
「……あのさ。実は俺、この学校でのこと、よく覚えてないんだ。」
「えっ!?」
「この学校の中で事故に遭ったせいか、あんまりのショックで記憶が壊れちゃったっていうか。  いや、記憶っていうよりも思い出が壊れちゃったのかな」
「………………」
 さりげなく校舎のほうに視線を移す。 やっぱり窓は完璧に閉められていて、カーテンの奥の教室は薄暗い。
「……だから、ごめん、君のことも覚えていないんだ。  でも、もし一年のときにお世話になってたら、ありがとう。  よかったらもう一度、名前を教えてくれるかな」
 過去の自分に代わって礼を言い、彼女に向き直った。
 いつのまにか彼女との距離は、手を伸ばせば届きそうなほどになっている。 二人きりで、面と向かって女の子に名前を尋ねるなんて初めてかもしれない。 何だかナンパでもしているような気分になって、照れくさくなった。
「しいな、よ」
 彼女は呆然としたような表情に戻ったまま、ハッキリと告げた。
「椎名さん?」
「下の名前が、しいな。苗字は久世、で、久世椎菜、っていうの」
「……そっか、うん。改めてよろしく、椎菜さん」
 珍しい響きの名前だ。くぜ、しいな。頭の中で反復する。
「……それにしても、よく俺のことがすぐにわかったね。 こんな傷だらけのフランケンシュタインみたいになっちゃってるからさ、 家族でもない限りわからないもんかと思ってたけど」
 軽く、笑いながら自嘲してみる。 そう、僕の傷は顔・身体じゅうに全部で数十箇所に及んでいて、 縫い目は無いもののフランケンシュタインそっくりなのだ。 びりびりに破れた僕の顔。 道行く人がギョッとして振り返ったり、または慌てて見ないフリをしても仕方がない。
「……都築くん」
「え、なに?」
 椎菜さんは、あと半歩踏み込めば体が触れてしまいそうな距離まで近づき、僕の目をじっと見据えたあと、
「…………痛そう……」
 傷に視線をずらして、そうつぶやいた。……いたそう?
 え、もう痛くないよ、と返す間も与えず、椎菜さんはくるりと後ろを向いてしまった。 そして、新学期に何か困ったことがあったら何でも言ってね、と、少しだけ明るい声で言って、 校門のほうへすたすた歩いて去っていった。
 ……なんだろう、気を遣ってくれたのかな。それとも何かいたたまれなくなってしまったのだろうか。 でも、さっき僕を見据えた彼女の目には、あわれみというよりも なにか――――――悲、しみと。 怒りのようなものが、こもっていた。

 彼女の背中はもう遠い。 濃い桜色の長い髪をなびかせて、桜の街へと去ってゆく姿。 凛として美しい中に、なにか救いようもなく儚いものを見たような気がした。


 桜の花びらがひとひら、僕の目の前すれすれを通り過ぎていった。
 春はしあわせな季節だ。
 空気に、人に、水に、動物に、草花に。
 みんなに待たれているから。
 しあわせな、季節だ。






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