二.白寄りの緋




 HRが始まる時間になっても、うちのクラスの先生は一向にやって来なかった。もう廊下で話している生徒はいなくなり、いよいよ両隣のクラスからは、新学期のせいか異様に気合の入った先生の声が聞こえて来始める。だというのに、我が2年C組のみがそれから取り残されている。皆、この状況を「いいのかな?」と軽く危惧しながらも、新旧の友人と気ままにお喋りを続けていた。
 少しして、学年主任らしき年輩の男の先生が教室に入ってきた。
「えー……このクラスの担任は栗原多喜先生だが、都合により遅れて来るそうだ。始業式は九時からなので、それまで静かに待機していなさい」
 そう言ってまた、すぐに出て行ってしまった。その際、ドアの外からなぜか「久世、ちょっと来てくれ」と椎菜さんを手招きしていた。椎菜さんは特に戸惑うそぶりも無くその先生についていった。
 残された生徒は殆どがポカンとその様子を見ていたが、何人かは、
「多喜ちゃん、絶対寝坊だろうな」
「あー。今年もデコ委員長は委員長か」
 そんなことを言って笑っていた。デコ委員長、とは、やはり椎菜さんのことなんだろうか。
 静かに待機と言われても、こういうときは、やっぱりざわついてしまう。思わぬ自由時間ができてラッキーとばかりに、またお喋りが始められる。何人かは机に突っ伏して寝ている生徒もいる。その中には勇美もいた。
 ふと、自分の隣の席を見てみると、そこには象牙細工のように美しい女の子が静かにうつむいて座っていた。
 香坂美雨さん。なぜ僕は、彼女のことを覚えていたのだろう。僕は椎菜さんのことも、勇美のことも、他の人たちのことも覚えていなかった。なのになぜ、この子の姿と名前だけが、記憶に残っていたのだろう。
「都築くん……特別かわいい女の子のことだけは覚えてるなんて、意外と現金ねー」
 ――先ほど、椎菜さんにそんなふうに笑われたことを思い出す。
「そ、そんなんじゃないよ……!」
 慌てて否定しつつ香坂さんを見ると、彼女は唖然としてこちらを見ていた。何だか気まずくて何も言えずにいると、椎菜さんは香坂さんに、僕の記憶障害の旨をサラッと説明してくれた。香坂さんは目を丸くして、「そう……なの……」と言った。彼女の声はとてもか細く、小さく、可憐な声だった。
 そして、椎菜さんは続ける。
「で、都築くん。都築くんの言うとおり、こちらは香坂美雨さんよ。一年生のときも、私や都築くんと同じC組だった」
「あ、そうなんだ……」
「ほんと、なんで覚えてるのかしらね? 中学とかが一緒だったわけでもないんでしょ? 二人とも」
「うん。それに覚えてるのは、高校の制服を着た――きっと一年のときの香坂さんだ」
「やっぱり、美少女だから印象に残ってて覚えてたんじゃないの? 香坂さんはうちの学年のマドンナだし、まあ無理もないわよね」
 椎菜さんは香坂さんのほうにも笑いかけながら、僕をからかう。
「ああもう、だからそんなんじゃないってば。なんでか知らないけど、覚えてたんだよ」
「うーん、不思議不思議ー」
「椎菜さん!」
 なぜだか妙に満足げな調子の椎菜さんの言葉を覆したいと思う一方で、その言葉に確かな説得力を感じている自分もいた。学年のマドンナ。確かに香坂さんは誰から見ても文句のつけようが無いくらいに、とても綺麗なひとだと思う。
 透き通ったダークカラーの大きな瞳と、それを護るように縁取る長い長い睫毛。白い頬、すっとした鼻筋に、あどけない薄紅色の唇。セミロングの、少し内はね気味の群青色の髪。頭の後ろに結ばれた大きな白のリボンが、あつらえたようによく似合っている。そして、細くすらりと伸びた手足。それでいて、ブレザーの上からでも胸の膨らみがわかるくらいに、女らしい丸みを持った体つき。能動的に目立ってくるような派手なタイプの美人では無いにせよ、一度視界に入れてしまったら確実に目を奪われてしまうような、研ぎ澄まされた美しさがある。
 彼女は黙って、ぼんやりと僕と椎菜さんを見ていた。
 椎菜さんは彼女の視線に気付き、「じゃあ、はい、お二人、改めて握手しましょうか〜」などと言い出した。
「えっ!? あくしゅ!?」
 僕は急に緊張する。
「覚えてたのも何かの縁でしょ。せっかくまた同じクラスになれたんだし、ね? はい、握手握手」
 椎菜さんはそう言って僕と香坂さんの手を取り、つなぎ合わさせた。僕はつい乗せられて、香坂さんの手をぎゅっと握ってしまう。すると彼女も、それに反射するようにそっと握り返してくれた。血の通ったガラス細工のような感触に、どきりとする。白く、細く、すべすべとした美しい手。大きくゴワゴワした僕の手とは、本当に大違いだった。
 何だか恥ずかしくて、彼女の顔を見ることができなくて、ただ、手のつなぎ目だけを見つめていた。
 そうしてしばらく、囚われたようにその手を握ったままでいると、
「……いつまで握ってるの?」
 横からの椎菜さんの苦笑いで我に返り、慌ててパッと手を離す。離した瞬間になって、やっと目が合う。そして、二人して赤くなって、お互いすぐに目をそらした。
「あ……えと、じゃあ、とにかく、よろしく香坂さん……」
 視線をふらふらと彷徨わせながら言う。
「うん……よろしく、都築くん……」
 彼女はどうやら僕の隣の席のようで、おずおずと静かにそこへ座った。すると、そこへ彼女の友達らしき女の子が二人やって来て、何やら彼女をからかっていた。
 僕はぼんやりと、彼女の手の感触を反芻していた。早く消えて欲しいような、消えて欲しくないような、あまりにも清らかな掌の記憶。
 結局担任の先生は来ないまま、始業式の時間がやって来てしまった。椎菜さんが先生代わりになって先頭に立ち、クラスを体育館へと誘導していたが、ずいぶんとこなれているもので感心した。
 式が終わり、新学年の教科書がたっぷりと生徒達へ配布されているあたりで、ようやく担任の先生が現れた。まだかなり若そうな、どこか頼りなさげな女の先生で、学年主任の先生や椎菜さんに口々に怒られてシュンとしていた。
「本当に寝坊で遅刻だったのかな、あの先生……」
 思わず小声で勇美に話しかけてしまう。
「ああ、栗原先生な。あの人は、去年もお前の担任だったぞ」
「あ、そうだったんだ……」
 やっぱり、覚えていない。名前も顔も声も振舞いも、何も思い出せない。ただうっすらと心に残っていたのは、香坂さんのことだけ。
 僕は一体、この学校でどんなふうに過ごしていたのだろう?もしかしたら、とんでもなく誰かを苦しめるようなことをしてしまっていたのかも知れない。まさかこの傷は、その誰かに憎まれてつけられた傷なんじゃないだろうか? もしそうだとしたら? 僕は、どうすればいいのだろう。
 この推測が当たっているかどうかを確かめるのは、不可能ではないと思う。椎菜さんに聞いてみれば、去年の僕のクラスでの様子くらいきっとわかるだろう。でも、まだ、今は怖い。それを聞く勇気も覚悟も無い。自分の過去が、怖い。

 HRが終わると、早々に帰宅となった。まだお昼にもなっていないうちに、勇美と一緒に下校する。
 気温があがってくる時間帯に見る桜並木は、感情の高まりを思わせるような緩やかな激しさがあった。清楚なだけではない、植物の生命の迸り。ほかの花とは違って、どうして桜にだけはそれを強く感じるのだろう。
「ただいまー」
 家へ着き玄関を開けると、おばあちゃんがエプロンで手を拭きながらぱたぱたと駆けてきた。
「風ちゃん、おかえり。学校では何も問題無かった?」
 心配そうに、聞いてくる。
「うん、大丈夫だよ。勇美と同じクラスで安心したし、他の人にも親切にしてもらえたし」
「そう、良かった……。何か不安なことがあったらすぐお友達や先生に相談するのよ?」
「わかった、わかった」
 相変わらず過保護ぎみなおばあちゃんの言葉に、僕は笑って応える。
「じゃあ、ちょっとお父さんとお母さんに報告がてら手を合わせてこようかな」
 そう言って、仏壇のある和室へと向かう。電気のついていない部屋を、障子越しに差し込む春の陽だけが薄明るく照らしている。
 衣替えのときに押入れを使う程度で、普段は使われていない六畳の部屋。お父さんとお母さんの生前の寝室。今では片隅に小さな机が置いてあるくらいで他に家具はなく、殺風景なものである。奥にある小さな仏壇には、まだ二十代後半くらいの二人の、古ぼけた写真が飾られていた。僕は二人の顔を全然覚えていないが、その写真を見れば、生きているときの二人に擬似的にでも出会うことができた。おばあちゃんいわく目元と鼻筋が僕と似ているお父さんと、長い髪をした穏やかそうなお母さん。そういえば、あと十年ちょっとすれば僕は二人の歳に追いついてしまうんだなあと思った。
 その仏壇の前に正座して、お線香を手に取り、火をつけ、立てる。鉦を鳴らす。
 もう十数年もほぼ毎日付き合ってきて、嗅ぎ慣れてしまったお線香の熱い香りに、目を閉じ、手を合わせる。
「お父さん、お母さん。ただいま。今日は学校の始業式でした。俺は今度、高校二年生になりました。事故以来、初めての登校だったから色々不安だったけど、幼馴染の勇美と一緒のクラスになれたし、久世椎菜さんっていうすごくしっかりしてる子にも親切に接してもらえたので安心しました。あと、隣の席の女の子が、香坂美雨さんといってとても綺麗な……」
 と、それは別にお父さんお母さんに報告するようなことじゃないか、と言葉を切った。
「とにかく、俺は大丈夫です。お父さんとお母さんのぶんまで、頑張って、いきます――――」
 目を開けた。目を閉じる前と変わらない世界が、そこにあった。

 次の日。登校すると、教室では椎菜さんが他の子と話していた。
「あ、おはよー! 都築くん、天野くん」
 僕と勇美に元気に笑いかける。
「おはよう、椎菜さん」
「よう、久世デコ」
 勇美がしゃあしゃあとそんな挨拶をすると、椎菜さんは唐突に笑顔を崩した。
「くっ、くぜでこ!? なんで苗字つけてデコなのよ!」
「三宅デコと区別しようと思って」
 三宅デコって……片割れのルイさんのことか。
「普通に苗字だけで呼べばいいじゃない! ていうかデコって言うなって昨日言ったでしょ!」
 椎菜さんはぷんぷん怒って勇美に抗議するが、勇美は取り合わない。なんだろう、勇美は、おでこに何か恨みでもあるのだろうか。こいつのこだわりの基準は、小さい頃からいまいちつかめない。
「もー、バカにしてー! バカにしてー!」
 二回言うほど椎菜さんが不機嫌になってしまったので、僕は話題を転換しようと、彼女の相方のことを尋ねる。
「あ、あの、椎菜さん。ところでルイさんは? まだ来てないの?」
「ん? ルイはバスケ部でねー、もう今日から朝練が始まるみたいだから、HRギリギリ前にならないと来ないよ」
 笑顔に戻って答える。
「へえ、そうなんだ。椎菜さんは何か部活やってるの?」
「私はもっぱら帰宅部よー。特別にやりたいものってのもないし」
「ふーん……」
 僕も中学のときから何も部活はしていなかったが、それは家の手伝いを優先しようという気持ちと、単なる怠惰との半々の理由からだった。高校に入ってからも変わらず帰宅部だったらしいが、その理由もきっと同じだろう。椎菜さんはどうなのだろう。やりたいものがないと言うけど、優等生だという彼女は勉強が忙しいのかもな、と思った。
 そこで、予鈴が鳴る。僕らはぱらぱらと席に着き出す。
 椎菜さんのほうを見ると、近くの席の子が彼女に何か話しかけていた。
「ねー、久世さん、あの事件の人と話してたよね。なんか怖くない? あのひと」
 それほど大きな声では無かったのだが、しっかり聞こえていた。自分の地獄耳を恨めしく思う。
 椎菜さんは何でもないふうにスッパリと答えた。
「ううん、そんなことないよ。都築くん、優しい人だよ」
「ふぅん、そうなの?」
 ――僕のほうが、そうなの? と聞きたかった。椎菜さんの答えは嬉しいけれど、それ以上にびっくりした。優しい人……って、昨日今日でそう思われるようなことは特にしていなかったと思うのだけど。何を根拠に、椎菜さんはそんなフォローをしているのだろうか。根拠。一年生のときの、ことなのだろうか。できれば、そうあって欲しい。得体の知れない自分の過去に宙吊りにされるのは、居心地が悪い。何か自分というものを固定できる手がかりは欲しいけど、それも良いことがら限定であって欲しいという、わがままな気持ちが働いてしまう。
 と、自分の横を見ると、香坂さんが登校してきていた。
「おはよう、香坂さん」
 声をかけると、びくっとして振り向き、消え入りそうなほど小さな声で
「…………おは……よう……」
 そう、返した。小動物のように、びくびくと僕を見上げる目。完全に、おびえた顔だった。
 僕は、今はきっと少しひきつっているであろう笑顔を保ったまま、うーんと思い悩む。久世椎菜さんと、香坂美雨さん。二人とも僕の一年生のときを知っているわけだけど、この対応の違いようには何か深い意味があるのだろうか、と。
 いや、単なる二人の性格の違いかな。香坂さんのこの態度については、昨日椎菜さんが彼女の前で「美人だから覚えてた」だの何だの、いらないことを色々言ってしまってたせいもあるだろうし。全く、あれは今思い出しても悪態をつきたくなる。
 そんなふうに思い直したところで、先生が教室に入ってきて、朝のHRが始まった。

 今日は学校も始まってまだ二日目なので、半ドンである。二時間目までは肩慣らしにオリエンテーション的な内容のHRをやり、あとの二時間は大掃除。そして、昼食はとらずに下校である。
 HRの時間、クラス委員長を決める段になると、教室は生ぬるい沈黙に包まれた。中学校のときから、大抵のクラスはこんな感じだと思う。まだ小学生くらいなら、意欲ある児童がストレートに自己顕示欲を表して元気に手を挙げていたものだが、中学生くらいになるとそういう自分と周りとを冷めた目で見つめ始め、大方の生徒は「何も自分がやらなくてもな」と、手を引っ込めるようになってしまう。
 そして我がクラスもご多分に漏れず、数分にわたって誰も立候補せずに黙っているので、椎菜さんが見かねたように「他にやりたい人がいないんなら、私やりますけど」と言って手を挙げた。
「久世さん、待ってたわー!」
 担任の先生が、救われたように声をあげる。
 生徒達も皆すんなりと納得しているふうなのは、勇美でも名前を覚えているくらいに、椎菜さんが優等生として名を馳せているからであろうか。いや、いわゆる「偏差値秀才」だからといって、委員長を務めるのに必要な統率力や判断力をも持ち合わせているとは限らない。だが、椎菜さんはお勉強が出来るだけではなく、そのあたりの適性もしっかり備わっていて、そして人望もあるのだと昨日からの様子を見て思い知った。数日前、あの桜の木の下で。僕は幸運にも、本当に頼りになる人と出逢うことができたのだ。
 でも、あの日のことを思い出すと、少し不思議な気分になる。どうして椎菜さんは、僕を見て、あんな目をして、「痛そう」とつぶやいたのだろう? 決議の拍手を受ける彼女の後姿を眺めながら、そのことをぐるぐると考えた。
「椎菜さん、委員長さんだね」
 次の休み時間、僕は椎菜さんに話しかける。
「だって、ルイが“決まらないからあんたやりなさいよ”って目で合図するからー」
 そうぶつくさ言いつつも、まんざらでもなさそうである。
「でも、椎菜さんって委員長とか生徒会長とか、似合ってる感じがするよ」
「そお? 実は小学校のときから10年連続で学級委員だったのよね。今年で11年目か」
「そ、それはまたすごいな……」
「ところで、都築くんは次の大掃除、どこ担当? 遠くだったらもうそろそろ出たほうが良くない?」
 そう言われて周りを見回すと、皆ガヤガヤと移動し始めていた。教室掃除担当で残る者、それ以外で出て行く者。普段は週ごとに分担されて掃除当番が回ってくるシステムのようだが、学期初めと終わりだけは全校総出で掃除を行うので、雑然として騒がしい。
「そうだな。俺は、昇降口前」
「あっ、外掃除いいなー。私はベランダだよ」
「そっか。じゃあ、そろそろ行くか」
 そう言って、軽く手を振って椎菜さんと別れ、外に出た。
 生徒でごった返す階段を一人で行く。朝とは違い、勇美はいない。掃除場所の分担は、席を適当に区切って決められた。ざくざくと、四角に区切って。ということは、隣の席の香坂さんとも、同じ場所である。
 下駄箱を通り、昇降口から外へ出ると、眩い春の日差しに目がくらむ。
 視界が戻ってくると、その片隅に、香坂さんの姿が捉えられた。心持ち、同じ担当場所の女子の近くに寄り、渡された箒の柄をぎゅっとにぎっている。彼女はちらりとこちらを向くと、すぐにフイッと顔を背けた。
 僕らのグループはさして親しく話をするでもなく、静かに黙々と掃除をした。春の午前の心地よい風の音や、木々のざわめき、壁や窓ガラスを隔てて聞こえてくる校舎内の生徒達の声、塀の向こうの街に聴こえる自転車の音や踏み切りの音、犬の鳴き声などに耳を澄ませるのも一興ではあるのだが、やはり、何となくさみしい。僕らのグループは男女半々で6人。まだ新学年なのだからある程度はしょうがないが、こうも会話に乏しいと気まずいものがある。
 はぁ、とため息をつき、箒に体重をかけて空を見上げる。飛行機雲がくっきり見えるほどの、綺麗な青空。
 突然、二階のあたりから、こちらへ呼びかける声が聞こえた。
「おーい、都築くーんっ!!」
 聞き覚えのある声で、他でもない自分の名が呼ばれ、驚いて声のしたほうを見上げる。そこには椎菜さんがいた。二階のベランダで黒板消しをバタバタはたきながら、こちらを見下ろしている。
「椎菜さん……」
「やー! 元気ー!?」
「え!? まあ、うん、元気だよ!」
 黒板消しを手にはめたまま、こちらへ大きく手を振る。
「椎菜さん、そんなに振ったら落とすよ!」
「あっ、そうねー! じゃ!」
 そう言って、さっさと引っ込んでしまった。さして何の変哲も無い、他愛ないやり取りだったのだが、僕は「本当に元気なひとだなあ」と妙になごみ、笑みがこぼれてしまった。
 そしてふと周りを見ると、同じグループの人たちがじーっと物珍しげに僕を見ていた。僕はハッと我に返り、顔を真顔に戻す。
 すると、彼らの一人がおずおずと、しかし興味深そうに「……久世さんと仲良いんだね」と言ってきた。
「え? ええと……」
「朝もなんだか普通にしゃべってたよな。あの人いつも学年で一番だから、勉強ばっかしてて固そうとか思ってたけど、意外とそうでもないんだ」
「ああ、うん。椎菜さんは親しみ易いよ。俺だってちょっと前に会ったばかりなのに――って言っても、一年生のときも同じクラスだったみたいだけど、記憶に無いし……」
 それから、グループのうちの何人かとぽつぽつ会話した。僕の事件や記憶障害のことについても、いくらか尋ねられた。このことについては担任の先生が、僕の心情を気遣ってか、あまり深く突っ込みすぎない程度にクラスに説明してくれていたが、それでも皆は何かと気になるのだろう。だが、その訊き方は特に嫌な感じはしなかった。皆、好奇心を隠し切れないながらも、デリカシーの無い言い方をしないようにと気を回しながら訊いてくれるので、僕はありがたく、現状を素直に話せた。……よくTVのドキュメンタリー番組などで取り上げられているような、箸の使い方から何から忘れてしまっているような重度の記憶障害ではなく、一年のときの出来事だけすっぽり記憶から抜け落ちてしまっていること。斬られたときのことや犯人のことは、まったく覚えていないということ。飛んでしまった後の記憶は、病院で寝ているところから始まっていること。出血多量で一時は生死の境をさまよい、輸血をたくさん受けたらしいということ。そのときは僕の血液型――AB型の血液が不足していて、大変だったと後から聞いたこと、など。
 その間、香坂さんは少し離れたところで、黙って掃除をしていた。こちらの会話が耳に入っているのかそうでないのかは、わからなかった。
 そうしている間に、長い長いと思っていた掃除の時間は案外あっという間に終わり、僕達は片づけをし始めた。
「あ、俺が箒しまってくるよ。先戻っててもいいよ」
「おー、悪いな、都築」
「ありがと、都築くん。お願いねー」
 僕は自分から申し出て皆の箒を集め、外用の掃除用具をしまってある倉庫へと運んでいく。
 そして、昇降口へ戻る前に、路地奥のあの桜のほうへ歩いていく。なぜなのか自分でもわからないけれど、にわかに見たくなった。その下で椎菜さんと出会った、あのつつましやかな桜を。
 だが、いざそこまで行ってみると、桜よりも別のものに心を奪われてしまった。――香坂さんが、そこにいたのだ。
「……あれ? 香坂さん?」
「!」
 彼女はびくっとしてこちらを向く。
「? 戻ってなかったの?」
「あ、あの……あたし……」
 僕がきょとんとして尋ねると、彼女は何と言っていいかわからないように言葉を濁らせた。
 数日前、椎菜さんが立っていたのと同じ位置に、香坂さんはいた。さやさやと風に揺れる、桜の木の下に立ち尽くす、綺麗な女の子。彼女の肩まで伸びた髪と、白いリボンもかすかに揺れている。その美しさに自分の感覚が完全に引き込まれてしまい、目を縫い付けられたようにその姿を見つめると、彼女はなぜか哀しげにうつむいた。
 そのしぐさに、また、激しい既視感を覚え――――
「あ……」
「……都築くん?」
 彼女に、大きく近寄っていた。彼女は困惑したように、小さく僕を見上げる。僕は彼女を見つめたまま、言う。
「ごめん、香坂さん。ちょっとそのままでいて。顔の角度とか、今のままで」
「え……どうして……?」
「……思い出せそうなんだ、今。こうして香坂さんを見てると。香坂さんのこと。一年生のときの、こと――」
 言うと、彼女は心臓をつかまれたように顔を引きつらせた。
 そして、僕の脇をすり抜け、逃げるように走り出す。
「あ、香坂さん!」
 呼び止めようとすると、彼女は十分に僕から離れたところで一度だけ振り返り、
「思い出さなくていいです、思い出さないでください……!」
 悲痛な声で叫んで、また、昇降口のほうへと走っていった。
 僕は彼女の去っていったほうを見つめ、帰りのHRの予鈴が鳴るまで、何も出来ずにただ立ち尽くしていた。白に近い緋色をした、桜に降られながら。もう見えないはずの香坂さんの小さな背中を、いつまでも見つめていた。

 帰りのHRも終わり、僕は一人で、また路地奥にある桜の木の下へやって来た。勇美は今日から部活が始まるというので一人で帰ることになったのだが、昇降口から出てきたときにやはりこの桜が目に付いてしまい、誘われるようにしてここに来てしまった。
 見上げながら、思い出す。先ほどの、香坂さんの拒絶を思い出し、ため息をつく。僕が教室に戻ってきて隣に座っても、彼女は下を向いて、決して僕を見ようとはしなかった。そのことを思い出して、切なくなる。
 しかし、何はともあれ、この桜の美しさである。この桜は、数日前に見たときと変わらず、美しく花弁を舞い散らせている。でも、変わっていないようで少しずつ、確実に変わっているのが自然というものだ。例えば夜空に浮かぶ月だって、じっと見ていれば全然動いていないように見えるのに、数時間もたてばあんなにも見事に弧を描いている。この桜も、永遠に咲き続けているようでいて、きっとすぐに葉桜になってしまうのだろう。そう思うと、一年のうちで最高の姿をしたこの桜から目を離してしまうのが惜しい気がして、桜のなかへ吸い込まれるような錯覚を覚えるほどに、自分へ降り注いでくるそれを延々と眺めてしまっていた。
 植物って心があるというけど、こんなふうに花弁が散るのは痛くないのかな、苦しくないのかな。でも、それは新陳代謝みたいなものなのかな、だったら大丈夫か……首がしびれてくる位にそんなことを考えていると、背後から、誰かが近づいてくる気配がした。確たる根拠は無いのだが、それが誰だかは何となく悟ることができた。
「椎菜さん」
 振り向く。当たりだった。あの日ここで出会った、桜によく似た雰囲気の女の子が、自然な足取りでこちらへ近づく。
「また桜見てるのね、都築くん。もう一時だよー?」
「うん、ちょっとお腹すいてきちゃったな。椎菜さんは委員長の仕事か何か?」
 首を前後に曲げ、笑いながら訊くと、椎菜さんも肩をすくめて微笑んだ。
「もう、早速ね。でも、もう終わったから帰るけど」
 彼女の手には学校指定のカバンがあった。彼女も靴を履き替え、昇降口から出たところで、ここにいる僕を見つけたのだろう。
「一人で?」
「うん、ルイは放課後もバスケ部あるし。ところで都築くん、天野くんと一緒に帰らないの?」
「あ、勇美も今日から部活だから、俺も一人だよ」
「ええ? 天野くんって部活なんか入ってるの? なんか見るからに帰宅部〜って感じだけど」
「あはは、俺もそう思うよ。でもあいつ、意外と星とか好きなんだよ。だから、天文部」
「へー。じゃあなんだろ、新星の発見とか狙ってるのかしら」
「そ、それはどうか知らないけど……」
 突拍子も無い椎菜さんの言葉に思考の調子が乱されつつも、笑う。すると、椎菜さんも一緒に笑う。笑い合う。
 何だか、とても安心した。椎菜さんがいてくれてよかった。こうやって、気兼ねなく話せる友達がいてくれて、嬉しい。香坂さんとのことで沈んでいた気持ちが、かなり浮かび上がってきた気がする。
「じゃあ、椎菜さん、一緒に帰ろう」
「うん、そうね。帰ろっか」
 桜越しの、淡い光の中。彼女は制服のスカートをかろやかに翻し、僕を導くように歩みを始めた。

 椎菜さんと二人で、学校脇の坂道を下る。彼女は前を行くでもなく、後ろについてくるでもなく、ほどよい距離感を保って僕と並び歩こうとしている。それでもやっぱり、歩幅からしてどうしても差が出てしまうので、僕は意識して軽く速度を落として歩いた。
 こうして並んでみると、いくら内面がしっかりしている椎菜さんでも、やはり華奢な女の子なんだなと思った。僕よりずっと背が低くて、細くて、丸っこくて、僕が全体重を預けたりしようものなら、くしゃっと潰れてしまいそうなあやうさ。毅然とした姿勢とそのたおやかさが共存していて、やっぱりこの子は桜みたいだと感じた。
「椎菜さん、委員長の仕事って、何してたの?」
「今日のところは、栗原先生の手伝いだけ。名簿作りとか、連絡網作りとかね。これからは先生の手伝いが日課になるのにプラスして、正式な委員長として学年会議とかにも出なきゃ」
「そうなんだ、忙しそうだね……。椎菜さん、栗原先生って去年も僕達の担任の先生だったそうだけど、どんな人?」
「どんな人っていっても、昨日今日の様子でわかる通りよ。ちょーっと、破滅的に、頼りないわね」
 “ちょっと”と“破滅的”は背反ではないだろうか? まあ、それだけ複雑な思いがあるということだろうか。
「まあでも、先生も先生なりにかなり努力してるみたいだから、あんまりキツいことは言えないけどね。 都築くん、栗原先生のことも覚えてない?」
 特に責める調子ではなく、単純な疑問といったふうに椎菜さんは訊いて来る。
「うん、覚えてない。勇美のことですら、一年のときのことは忘れちゃってるし……。覚えてたのは、本当にもう――」
 言いかけて、ハッと止まる。もう遅い。
「――香坂さんのこと、だけ?」
 椎菜さんが、ニヤニヤして顔を覗き込んでくる。
「いや、あの、それは」
「照れなくってもいいじゃない。好きな子のことだけ記憶に残ってるーなんて、映画みたいで素敵ねえ」
「す、好きって――まだ俺はそんな……」
「見ればわかると思うけど、香坂さんは競争率高いよー。頑張ってね、都築くん」
「あー……うー……」
 椎菜さんはこちらの言うことなど聞かずに、やたら嬉しそうにそんなことを言ってくる。何を勝手に話を発展させているんだ。言い返すのも恥ずかしくて、ただ黙って椎菜さんを見た。きっとすごく情けない顔をしているだろう。
 ご期待に添えなくて悪いけど、僕はさっき香坂さんに思い切り拒絶されたんだ。だからそもそも、僕にそんな見込みなんてものもあるはずないんだよーと、椎菜さんに言ってやりたい。でも、それでは拗ねているようでますます情けなくなるので、言わないでおいた。
 それにしても、彼女のあの時の様子を思い返してみて、あらためて思う。僕は本当に、香坂さんには嫌われているみたいだ。この傷だらけの風貌やなんかのせいもあるかも知れないけど、それだけであんなふうに激しく、「思い出すな」なんて言われるものだろうか。やはり、一年のときに何か――――
「? 都築くん?」
 いつの間にか僕は、はた、と歩みを止めていた。
 きょとんとして振り向く椎菜さん。
 僕は自分の足元を見つめて少し躊躇したあと、彼女の瞳を見据え、思い切って、訊いてみる。
「……椎菜さん……一年生のときの俺って、どんなだった?」
「――――――」
 彼女の茶色い瞳が、わずかに見開かれる。瞳孔が大きくなる音が、聴こえたような気がした。
 一瞬の、静寂が訪れる。
 直後、僕達の脇を道路沿いに、自転車に乗ったおばさんが走りぬけた。どこかで、犬が吼えている声もした。
 春の風は、坂の下からこちらへ向かうように吹いている。そのやさしさに後押しされるように、椎菜さんは言った。
「……変わらないよ? 今の都築くんとおんなじ。穏やかで、素直で、優しい人だった」
 言って、花のように柔らかく微笑んだ。
 ザァ、と風の音がする。彼女の長い髪が、さらさらと揺れる。自然というものは、秒単位ではその変化を感じ取ることなんてできない。だけどこのとき、確かに風向きが変わったように感じた。変わっていないのは、風を包み熱を与える、春の暖かさ。
 そういえば、あの桜から目を離してしまったことを、今さらになって認識した。明日もまだ綺麗に咲いているといいな、と思った。






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