三.光さやけき




「……きゃんっ」
 授業が始まって一週間ほど経った、四月も半ばのある日。
 学校の廊下を歩いていると、間の抜けた悲鳴とともに、派手な衝突音が耳に飛び込んできた。
 見ると、僕の少し後ろに、赤いジャージ姿の女生徒が突っ伏している。
「だ、大丈夫……?」
 慌てて走り寄ると、その子は痛みをこらえるように顔を押さえながら、よろよろと体を起こした。その様子が本当に痛そうなので、思わずその子のもとへとしゃがみ込む。
「んぅ〜……顔から突っ込んじゃったよう」
「鼻血とか出てないかな。平気?」
「うー……だいじょうぶ。ありがとう、都築くん……」
 その子は、くぐもった声ながらも、自然に僕の名前を呼んだ。
 あれ? どうして僕の名前――同じクラスの子かな、それとも去年……と考えを巡らせているうち、彼女は顔を覆っていた手を離した。よく、見覚えのある顔。
 ――あ、この子は、女生徒ではない。先生、だ。
 今さらになって視界の隅に、床に散らばった日誌と古典の教科書とをみとめた。

 昼休みの教室。皆お昼ごはんを食べようと各々準備し始め、席の移動なども適宜行われるので、この時間帯は雑然として賑やかである。
 僕は大抵、昼食は勇美と二人で食べるか、それに椎菜さんとルイさんという例のコンビが加わって四人で食べるかのどっちかなのだが、今日は後者だった。
「なんで栗原先生がいつもジャージなのかは、矢幡野高校の謎の一つね」
 先ほどのことを話すと、椎菜さんはそんな大仰な言い方をして笑った。 ルイさんも「身長も高校生と変わらないし、それにあの人わりと童顔だしね。知らずに見れば普通に中高生だと思うんじゃないかしら」と苦笑いしていた。
「うんうん、絶対見分けつかないだろうねー」
「……俺なんかなじみあるのに、完全に生徒だと思って話しかけちゃったよ。先生は気にしてなかったみたいだけど。顔が見えなかったとはいえ、何だか失礼なことしたな」
「あはは、大丈夫だよ都築くん。むしろ若く見られて喜んでるって」
 椎菜さんは笑顔でフォローしてくれる。
「だといいけど……」
 2年C組の担任で、去年も僕の担任だった、栗原多喜先生。担当教科は古典。
 いつもジャージを着ているけれど、女子高生と見まがうほどに可愛らしい先生。僕が小中学校のときは30代から50代くらいの先生ばかりだったので、こんな漫画に出てくるような先生が実在するものなのかとしみじみしてしまった。
 始業式の日から寝坊して遅刻してしまったり、何もないところで転んで顔から床に激突してしまうようなそそっかしさはあるけれど、そのぶん身近で親しみ易い先生だと思う。失敗も色々するけど、それでもめげずに一生懸命がんばっている人なんだというのが、この一週間ほどでわかった。先生の援護役であるクラス委員長・椎菜さんもそこは認めているようなので、失敗した先生にお小言を言うにしても、叱りつつもどこか可愛がっているようなふしがある。
 栗原先生は去年僕があの殺人未遂事件に遭った後、お詫びと説明をしに、校長先生や教頭先生と一緒に僕の家へやって来たらしい。僕はそのときは面会謝絶状態だったのでその場には立ち会っていなかった。だが、どんな様子だったのかは何となく想像できる。後からお祖父ちゃんやお祖母ちゃんに話を聞いたとき、「どうにも頼りなさそうな先生」と辛らつな評価を下されていたことからも、明白である。きっと、栗原先生はひどく恐縮して必死に謝ったのだろうと思った。僕が悪いわけではないのだけど、思いがけず大変な責任を問われてしまった先生の狼狽を思うと、悪いことをしてしまった気がして胸が痛む。
 昼休み終了の本鈴が鳴る。五時間目はちょうどと言うべきか、栗原先生の授業だった。先生は古典の教科書と古語辞典、名簿をかかえ、慌て気味に教室に入ってきた。おさげにした亜麻色の髪が、ふわふわと揺れている。教卓に着くのと同時に、委員長である椎菜さんが号令をかける。
「きりーつ、礼、着席ー」
 ガタガタと椅子の鳴る音が止むのを待って、先生は口を開いた。
「――ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ、ね。今年は桜の開花が例年より遅かったって言うけど、矢幡野じゃもう随分散っちゃってる」
 そう言いながら、窓の外を眺める。教室からは、その下で椎菜さんと会ったあの桜の木は見えないので、先生は街全体の桜を漠然と眺めているのだろう。先生の言うとおり、四月中旬にしてこの街の桜はもう、花弁の下から現れた緑色の葉が目立ち始めている。また、季節が新しい姿へと移り始めているのだ。花が、季節を決めるのだろうか。季節が、花を決めるのだろうか。
「じゃあ、えーと、出席番号16番の島田さん。前回の復習よ、今の歌は13世紀に編纂されたある撰集に収められているけど、その撰集とは何でしょう」
「小倉百人一首」
「うん、正解。じゃ、詠み人は?」
「……えっと、小野小町……?」
「んー、惜しいなぁ。小野小町が百人一首で詠んだ歌も花に関するものだけどね、この歌は別の人。じゃ、他に誰か分かる人ー?」
 始業式の日と同じように、静まり返る教室。そしてやはり始業式の日と同じように、椎菜さんが見かねたように手を挙げた。
「紀貫之、ですか?」
「久世さん、せいかーい」
 先生はにっこりと微笑む。
「じゃ、ついでに。この歌の“ひさかたの”のように、特定の語を引き出すための修飾的な語句を何ていう?」
「枕詞です」
 椎菜さんはなんとなしに即答する。
「じゃ、この歌の最後に使われている“らむ”の用法は何かしら?」
「理由推量の助動詞……現在の」
「小倉百人一首を編纂したのは誰?」
「藤原定家」
 椎菜さんの机を見ると、教科書もノートも閉じられたままなので驚いた。ちゃんと予習復習をしてきて、覚えているのだろう。
「正解正解。じゃあ、最後の問いね。桜の花言葉は何でしょう?」
「えっ、花言葉? それは知らないです」
 いきなり古文の知識とは関係ないことを訊かれて、さすがの椎菜さんもうろたえる。花言葉なんて雑学知識の領域だ。もちろん、僕も知らない。
「色々あるけど、代表的なのは“精神美”ね。散り際の潔さが尊ばれる桜らしくもある言葉だなって先生は思うわ」
 先生はうんうん、と一人でうなずきながら話し、椎菜さんはきょとんとした表情で聞いていた。
 散り際の潔さ。確かに言われてみれば、桜にはそういう面もある。枯れゆくのでなく、咲き誇ったままに散ってゆく物悲しさを感じた。
 授業終了前、僕は先生に「話があるから放課後、職員室に寄ってくれ」と声をかけられた。皆が下校するか掃除当番の仕事を始める中、一人言われたとおりに職員室に行く。
「失礼します」
 ノックをして入室すると、職員室にいる先生方は少し目を丸くして傷だらけの僕の姿を見、そして目をそらした。僕はたいていの先生よりも背が高いから、その様子がよく見えてしまう。その中でただ一人にこやかにしている、奥のほうの席に座った栗原先生に「こっちこっちー」と手招きされた。
 おずおずと先生の机に近づくと、そこには古典の参考書とともに、ノートパソコン、大量のMOディスク、CD-Rなどが置いてあった。先生はあまりデジタル方面に強そうには見えないので意外だったが、授業で使うプリントなどもワープロ打ちで作られているのを考えれば当然のことなのだろう。しかしこの、茶色のチェック柄のノートパソコンというのは一体どこで入手したのだろうか。
「栗原先生、あの……」
「なーに? そんなかしこまんないでいいよ、お説教じゃないんだから。都築くんは休学明けだからね、大丈夫かなって色々フォロー入れていこうと思っただけ」
 先生の暖かい笑顔に、安心する。ちょこんと椅子に座ったまま、立っている僕を見上げる眼に、あらためて少女のようだと思わされる。
「何か困ったこととか気になることとか、あったら遠慮せず言って? 先生は頼りないかもしれないけど、出来る限り善処するからね」
「ありがとうございます……でも今のところ、俺は大丈夫ですよ。椎……久世さんにも、助けてもらってるし」
「久世さん? ……そう」
「?」
 先生の声のトーンが、わずかに落ちる。
「頼りになるもんねぇ、久世さん」
「はい」
「でもね。先生のことも頼りにしてね? ……わたしだって、都築くんの力になりたいから」
 いきなり一人称が“わたし”に変わった先生に真剣な眼差しを向けられ、どぎまぎする。
「は、はい……」
 やんわりと目をそらしながら応えると、少し離れたところに、白衣を着た若い男の先生が立っているのに気付いた。銀縁の眼鏡越しに、こちらを無表情で見つめている。確か、この先生は……と僕が考えているうちに、きびすを返して職員室から出て行った。あの先生は、生物の先生だ。うちのクラスも担当している先生で、もう1〜2回は授業を受けたと思う。だが失礼なことに、名前までは思い出せない。
 これから定期的にこうして簡単な面談を行う旨を栗原先生から伝えられ、僕は職員室を出た。
 カバンを取りに教室へ戻ると、もう掃除用具の後片付けをする数人の生徒しか残っていなかった。今日は一人で帰ることになるかなと思った矢先、背後から、明るい女の子の声がかけられる。
「あっ、都築くん、今から帰るの?」
 バインダーやクリアファイルを胸に抱えた、椎菜さんだった。
「うん……椎菜さんは、また委員会出てたんだ」
「今日は新歓の準備でねー。でも、もう終わったよ」
「じゃ、一緒に帰ろうか」
「うん。ちょっと待ってて、すぐ支度するから!」
 椎菜さんは僕の横をすり抜けて自分の席に行き、手早く帰り支度をし始めた。先日一緒に帰って以来、僕は何度か椎菜さんと一緒に帰っている。椎菜さんとは小学校も中学校も違ったのだが、二人とも学区の分かれ目付近に住んでいるため、お互いの家はそう遠くないようなのだ。
 あの日からもう、椎菜さんに一年のときのことは訊いていない。下手に何か言って、平和な関係に少しでも揺さぶりをかけるのは避けたかった。あの桜咲く日、彼女が言った言葉。
 ――……変わらないよ? 今の都築くんとおんなじ。穏やかで、素直で、優しい人だった――
 その言葉までで、留めておこうと思った。
 学校を出ると、傾きかけた日を背景に緑がさやさやと揺れていた。まだ昼がそう長くない四月の午後の、涼しい空気。椎菜さんの長い髪もまた、それに揺られている。散ってしまった桜を思い出させるその色、その動きに、ふと触れてみたくなる気持ちを抑える。
「ん? 何、どうしたの?」
 歩きながら、僕を見上げる椎菜さん。
「いや、な、なんでもないよ……」
「んー?」
 僕も16そこらの男なので、女の子の体の手ざわりに興味が無いはずはない。でも今のはきっと、そういうのとは別次元の感覚だった。ただ髪に触れたいと感じるなんて初めてで、なんだか自分が恥ずかしかった。
 この街は坂道が多い。僕らの通学路でも、途中で何度も坂を上ったり下ったりする場所が出てくる。坂を上り、石造りの橋に差し掛かったところで、椎菜さんが声をあげた。
「わ、すごいねぇあそこ。花びらがいっぱい浮いてるよ」
 見ると、橋の下を流れる川には無数の花びらが浮かんでいた。川べりの遊歩道に並んで聳え立つ樹木の種類を確認するまでも無く、桜だとわかる。碧色にきらきらと光る水面を、白い――白に近い緋色の――花びらが躊躇いがちに覆い、ゆるやかに流れている。そういった模様の絹織物が、無限に引かれて僕らの足の下を滑っているようにも見える。僕と椎菜さんは無心にアリの行列を凝視する子どものように、しばらくその流れを眺めていた。
「……桜の花言葉、なんだっけ?」
 椎菜さんが、うつろにつぶやく。
「ああ、今日栗原先生が言ってたやつか。……なんだっけ」
「……思い出せないね……」
 一滴の血を世界に垂らしたくらいに淡く、大気が赤くなり始める。その日の光を、桜に覆われた水面は反射する。夜の闇へ向かう赤の中で、碧と、白に近い緋は、逃れようのない別れを告げるように流れ続けていた。

「おかえり、風ちゃん。遅かったね」
 台所へ行くと、おばあちゃんがエプロンをして夕飯の支度をしていた。鍋にお湯がぐつぐつと煮立っていて、蒸気がこもっている。
「なんか手伝うよ。買ってくるものある? お米とごうか?」
「今日はお蕎麦にするから大丈夫だよ。お蕎麦に載せるかき揚げも買ってきてあるし……そうだ、あとで肩もみしてくれるかい?」
「うん、いいよ」
 僕は人よりも握力が強く、まれに力を入れすぎて物を壊してしまうことがある。だから始業式の日に香坂さんと握手したときも、彼女の手を傷めてしまわないかと恐る恐るだった。だが、肩もみは得手だ。小さい頃からしょっちゅうおばあちゃんやおじいちゃんの肩もみをしていたので、自然と加減が体に染み付いてしまったのだろう。
「うーん、やっぱり風ちゃんは肩を揉むのが上手だねえ。将来按摩さんにでもなったらどうだろう」
 椅子に座り僕に背を向けたまま、気持ち良さそうな声でそんなことを言うおばあちゃん。紺色をした麻の上着の上から、その肩を丁寧に指圧する。その肉は弾力がなく、それでいてほんのりと熱をもっている。
「按摩さん? そっか、そうだなー……」
 曖昧に返しながら、内心僕は祈るような気持ちになる。長生きして欲しい、と。おばあちゃんにも、おじいちゃんにも。二人がいなくなったら、僕はどうすればいいんだろう。僕はまだ、大切な誰かを失うことを知らない。お父さんとお母さんが亡くなったのは物心がつく前だったし、それ以降も自分の身近な人を亡くす経験はしていない。正直なところ、「愛別離苦」の大きさなんて想像もつかない。
「……おばあちゃん」
「うん? なんだい?」
「…………なんでもない」
 言いたいこと、言いたくないこと、言うべきこと、言えないことが絡まりあって、ノドに詰まる。僕はそれを、嚥下してしまうことしかできなかった。おばあちゃんの小さな肩に密かにすがるようにして、指を食い込ませ続けた。

 翌朝。通学路を歩きながら、僕が昨日栗原先生に呼ばれた理由を勇美に尋ねられた。
「ああ、なんだかこれからちょくちょく面談してくれるんだってさ。事件のアフターケアみたいなものかな」
 自分の傷を指さしながら説明する。
「先生といい久世デコといい、去年の風を知ってる女はずいぶん懇意だな」
「……香坂さんは違うけどな」
 半ばすねたような気持ちで、返す。別に、香坂さんにまで先生や椎菜さんのように優しくしてもらいたいわけではない。ただ、普通に話せるくらいにはなりたかった。せっかく二年連続で同じクラスで、せっかく隣の席なのだから、よそよそしいままなのは惜しい。香坂さんはやっぱり、僕のことが怖いのだろうか。……他の人と、同じように。
「……先生や椎菜さんが俺に親切にしてくれるのも、先生が先生だからだし、椎菜さんがクラス委員長だからじゃないかな」
 そう、相手が誰であれ、僕みたいな境遇の人間がいたら親切にするのだろう。だが勇美はしれっとして「本当にそう思うか?」と返した。
「え?」
「先生と久世デコがお前に親切なのは立場上の問題だって言いたいんだろう。本気で、そう思ってるのかって」
「ああそりゃ、二人が元々そういう優しい人だからっていうのもある……」
「それだけじゃないだろ」
「?」
 勇美が何を言いたいのかわからない。何だよ、と目で訴えてみるも、勇美は面倒ごとを途中で投げ出すように僕から顔を背けてすたすた歩き始めた。何かバカにされてるみたいだ。釈然としない気分で勇美の背を追いながら、街路の桜並木を横目に見る。散った花びらの痕跡すらもすり減り、消えてしまっている葉桜。昨日先生が言っていた桜の花言葉は、今朝もやっぱり思い出せなかった。そもそも花言葉というのは誰が決めたのだろう? なんてことを、今更思う。
 教室に着くと、香坂さんが自分の席で、いつも一緒にいる二人の友達と話していた。
「……あの、おはよう」
 僕の低い声でどれだけ明るく聴こえているかわからないが、出来る限り明るく挨拶する。
「おはようございますー、都築くん」
「おはよー」
 二人の友達のほうは朗らかに返してくれたが、香坂さんだけはやはり僕と目を合わせないまま、「……おはよう」と小さく言うだけだった。僕の好きな人は香坂さんなのだと決め付ける椎菜さんに否定を繰り返してきたくせに、内心、一丁前にうなだれてしまう。好きというわけではない、けど、やっぱり香坂さんのことは気になるんだ。
 今日の授業は生物から始まる。だが、朝のHRが長引き、一時間目の開始時間直前になっても栗原先生はC組の教室にいて、わたわたと配布物を整理したりしていた。先生も、次の担当クラスに早く行かなければいけないだろうに。
「ああもう、あらかじめ分けておかないからですよっ!」
 椎菜さんが手早く手伝いながら、先生に怒る。インクで二人の手が黒く薄汚れているところから、プリントが刷られたのも時間ギリギリだったのだろうと推測できた。先生は泣きまねをするような声を出して、椎菜さんに謝っている。その様子に、一体どっちが先生でどっちが生徒なのだろうかと思わせられる。
「……俺も手伝うよ」
 僕も、二人が作業をしている教卓へ寄る。
「都築くーん、ありがとー」
「全くもう……都築くん、ごめんね」
 申し訳なさそうな椎菜さんに軽く首を振り、分けられたプリントを列ごとに配った。抜けてしまっている自分の席のほうを見ると、隣の香坂さんが僕のぶんのプリントをきれいに揃えてくれていた。
「きゃー、もう40分だぁ」
 栗原先生は教室の時計を見ながら、大げさに悲鳴をあげる。すると、一番前の席に座っていた生徒の一人が笑いながら「もうすぐ度会先生が来ますよ?」と言った。先生はその言葉に、ぴたりと動きを止める。
「そっそうねー、一時間目、生物だもんね……」
「この際、せっかくだし、度会先生と顔合わせてから授業行ったらどうですかー?」
「どういう意味よぅ、もー!」
 傍らで「手を止めるなー!」と癇癪を起こしている椎菜さんを無視して、栗原先生は顔を赤らめている。何か様子が変である。
「大人をからかわないのっ。みさくんとわたしは単に昔なじみってだけだもん。それに大体、みさくんとは職員室で毎日顔合わせて……」
 上ずった声で先生が言いかけたとき。そのすぐ横、教室の入り口から、冷ややかな声がした。
「栗原先生。学校でその呼び方はやめてください、と」
 同時に、一時間目の本鈴が鳴り始める。だが栗原先生はまるでそれが祝福のウェディングベルであるかのように、甘たるい目つきで声の主を見た。
 白衣の生物教師。昨日、職員室で僕と栗原先生が面談しているのを見ていた、男の先生。勇美と同じくらい華奢な体格だが、不思議な威厳が漂っている。そうだ、名前は度会先生、だ。しかし栗原先生は今、彼を違った名前を呼んでいた。
「みさくん……」
「……だから、その呼び方はやめてくださいと」
「あ、う、うん、ごめんなさい、度会先生……」
 どぎまぎと謝る栗原先生。その口元は、言葉とは裏腹に端が上がっている。その様子を見ている生徒達は、ある者は笑いを噛み殺し、ある者は事情が分からずキョトンとしていた。僕は、後者だ。ちなみに、椎菜さんは教師二人の間に広がるただならぬ空気に全く頓着する様子を見せず、カリカリした様子のまま作業を続けていた。それは事情を承知したうえで作業を優先しているからなのか、ただ単にこういう空気に鈍いからなのか。
「はいっ都築くん。これで最後ねっ」
「ああ、うん……」
 僕も気を取り直して、椎菜さんに手渡されたプリントを配る。それが前から後ろへ流されていくのを見て、一息つく。そして、最後の一枚も、香坂さんが僕の分を受け取り、揃えてくれているのをちらりと見た。
「ほら、栗原先生。早く授業に行かないと!」
 椎菜さんに呼びかけられて我にかえった先生は、教科書や辞書を抱え、度会先生にぺこりとおじぎして駆けていった。……また、転ばないといいのだけど。
 僕は席に戻って、急いで生物の教科書を出しつつ、香坂さんにお礼を言った。
「香坂さん、プリント揃えといてくれたんだ。ありがとう」
「あ、うん……」
 彼女は少しだけこちらを向いて応え、またすぐ自分の机に視線を落とした。だが、僕は嬉しかった。こんなちょっとしたことだけど、香坂さんに親切にしてもらえたから。これだけで嫌われていないという根拠にはならないだろうけど、笑みがこぼれてしまう。
 生物の授業が始まる、と同時に、前のほうの席にいた女子が度会先生に質問する。
「なんで度会先生が“みさくん”なんですか?」
 度会先生は無表情で、黒板にチョークを走らせる。そこには、“度会深青”という文字が綴られた。度会先生のフルネームだろうか。
「これで“わたらいみさお”と読むんだ。だから“みさくん”なのかと」
「栗原先生とはどういう関係なんですかー?」
「今は同僚だが、昔は近所に住んでいたせいもあって、幼友達みたいなものだった」
 興味本位の質問にも特に嫌な顔はせず、度会先生は律儀に簡潔に答える。そして、何事もなかったかのように授業を始めた。黒板の上の、自分の名前を何のためらいも無さそうにさっと消す。だが僕は、先生の名前が脳裏にしっかり焼きついてしまった。深青。深い青。凄くきれいな名前だ、と思った。
 僕はなぜ“風”と名づけられたのだろう。お父さんとお母さんは、なぜ“風”と名づけたのだろうか。二人が死んでしまった今となっては訊くことはできないし、おじいちゃんやおばあちゃんも知らないと言う。きっと、真実は一生わからない。でも、それでも、いいと思う。謎は謎でも、不快ではない。解決はされなくとも、心の中に持ち続けることで暖かさを感じられる、やさしい謎というのもあるのだ。……それにしても、僕は「ふうちゃん」と呼ばれるようなガラでもないので、この名前はちょっと照れくさかったりもするのだが。
「栗原先生って度会先生のこと好きなんかねーやっぱ」
「だろうね。わかりやすいよねー。可愛い、多喜ちゃん」
 まだ教室のそこここで、先ほどのことを話す小さな声が聞こえる。みんな、おかしそうに笑っている。
 ……それに染まる気配を微塵も見せずに居る人の横顔を、僕はそっと見つめた。僕の隣に座っている――香る坂、美しい雨、という名前を持つ人の横顔を。ぴんと張り詰めた絹糸のように、脆く繊細でも意志の強そうな雰囲気。そういえば、香坂さんの笑った顔って、一度も見たことが無いなあと思った。






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