四.甘い夢、赤い悪夢




 桜蕊降る、よく晴れた日曜日。
 台所でお昼ごはんの支度を手伝う。僕は流しの所でアサリをボウルに入れて砂を吐き出させ、おばあちゃんは後でそれと一緒に炒めるアスパラガスを切り分けている。水を弾くほど新鮮なアスパラガスの繊維が、ざくり、ざくりと分断される音がする。
「風ちゃん、学校で新しく仲の良い友達はできた?」
 視線はまな板に向けたまま、僕に話しかける。
「うん、まあまあ仲のいい人は何人か」
「一緒にお昼食べる子はいるの?」
「勇美以外だと、クラス委員長の女の子と、その友達と食べることが多いかな」
 すると、おばあちゃんは手を止め、驚いた顔をしてこっちを向いた。 そして、弾んだ声で「まあ、女の子のお友達かい? どんな子? お名前は?」 と訊いてきた。
「う、そこに反応するかぁ……」
「だって珍しいじゃない、風ちゃんに女の子のお友達なんて。ねえ、どんな子だい?」
「一人は久世椎菜さんっていって、クラス委員長。しっかりしてて親切で……優等生なんだけど、ちょっと変な子かな。もう一人は三宅ルイさんっていって、椎菜さんとは幼馴染で、バスケ部で、すごく運動神経のいい子で……」
 おばあちゃんはうんうん、とうなずきながら僕の話を聞いている。実際のところは女の子の友達というか、フルネームを覚えている女の子からして、椎菜さんとルイさんのデコデココンビの二人だけなのだが。……いや、フルネームを覚えている子なら、もう一人いる。香る坂に美しい雨という名を持った、他の誰よりも強靭に僕の記憶に根付いていた女の子――。


 学校ではその朝、春の実力テストの範囲表が掲示板に貼り出された。僕を含めクラスの殆どがそれを見て憂鬱そうにうなだれる。そんな中ただ一人、ツヤツヤというかテカテカというか、まあとにかく全身から輝きを迸らせている人は異様だった。
「…………椎菜さん、嬉しそうだね……」
 僕が声をかけると、その人は挙動不審な様子で振り向いた。
「えっ!? そう? そんなことないよ?」
 言葉では否定しているものの、こみ上げてくる笑みを隠し切れずにそわそわとしている、椎菜さん。さすが優等生は違うなあ、と言うのもちょっと違う気がする。どんなに優等生だろうと、こんなにも嬉しそうに、テスト範囲表が宝の地図であるかの如く見つめる人には会ったことが無い。
 そこへ、ルイさんが横からひょいと顔を出す。
「椎菜は中学ん時からこう、定期テストとかの前になるとイキイキしてくるのよね。はたから見ると気味悪いわよ」
「だって、こういう大きいテストって学校行事みたいなものじゃん。わくわくしちゃうじゃん」
「でも、浮いてるわよね」
 ルイさんに目線で同意を求められるが、苦笑いで曖昧に同意しておいた。それを見て椎菜さんは口を尖らせる。
「浮いてないよー。私以外にもテスト楽しみにしてる人はいるって。えっと、ほら……今は何組だったっけかな、神尾さんとこの兄妹とか」
「あー、あの双子の? あの兄妹も二人揃って頭いいしね。……でもあたし、兄貴のほうと一年のとき同じクラスだったけど、あれはイキイキっていうより、あんたを負かしたくてギラギラしてたっていうか……」
「えー!? 負かすー!?」
 だから、何でそこでそんなに顔を輝かせるんだろう椎菜さんは……。
「でも実際、神尾くんは数学は私より強いよ。前なんか8点差つけられて一位取られちゃったし」
 悔しそうにするでもなく、好敵手の存在に満足する戦士のように、そう語る。
「……その神尾っていう人は、椎菜さんのライバルみたいなものなの?」
 話の流れから、そう質問してみる。すると椎菜さんはけろりとして「別にそういうわけじゃないよ。殆ど話したこともないし」と答えた。 別のクラスであまり面識も無いのに、お互いの成績はしっかり把握してるなんて、優等生のコミュニティはよくわからない。

 四時間目の終わったお昼前。音楽の授業で移動教室だったため、うちのクラスは皆お腹をすかせてC組の教室に戻っていく。
 この校舎はどこの階も西寄り――校門寄りの側に通常教室がかたまっている。逆に東寄り――敷地内の奥になる側に、職員室や事務室、音楽室や図書室、保健室などの特別教室がかたまっている。2年C組は西寄りの2階にあり、音楽室は東寄りの4階にあるため、移動は少し面倒である。4月も終わりに近づき、僕はようやくどこにどの教室があるかが掴めてきた。まだ勇美がいないと不安なところはあるが、復学したての頃に比べればだいぶ楽になった。一年生のときに覚えたであろう物事を、もう一度新しく覚えて、記憶を塗り直していく。でも、またあの事件のときのように何かあったら、僕は同じように忘れてしまうのだろうか。記憶は水物だ、なんてことを思う。
 皆、音楽室を出て中央階段へとぞろぞろ歩いていく。
「風、戻るぞ」
 勇美も、楽譜の挟まったファイルを脇に抱えて、僕に声をかけてくる。
「うん。でも……」
 僕は中央階段ではなく、音楽室を出てすぐのところにある、校舎端の階段が気になっていた。この階段を降りたところ、3階の特別教室エリアには……第二理科実験室がある。今はもう使われなくなった教室。――僕が切り刻まれた場所。
「俺、ちょっと用事があるんだ。だから勇美、先に戻っててくれないかな」
「? ああ、いいけど」
 廊下に突っ立ったまま、勇美が中央階段に向かうのを見届け、人がいなくなったあたりで、反対側の校舎端の階段へと進んだ。
 おそるおそる、階段を降りる。一段一段降りるごとに、上履きのゴム地が床とこすれる音が響く。僕は一体、何でこんなことをしているのだろう? 記憶を取り戻したいわけではない。あの事件のあと、現場がどんなことになっているかを見たいといったような、好奇心があるわけでもない。
「……でも」
 理由はわからない、けど、見ておかないといけない気がしたのだ。かつて自らが主役となった、惨劇の舞台を。
 踊り場で折り返し、また、降り始める。だんだんと、3階の通路が見えてくる。第二理科実験室は一番端にあるから、階段を降りきってすぐだ。ふと手すりを掴んだ瞬間に、自分がしばらく息をしていなかったことに気付いて、深呼吸をする。肺が膨らむのと一緒に、恐怖も膨れ上がった気がした。なんで、僕は、こんなこと――――
 最後の一段を降りる。周囲には誰も居ないようで、遠く西側の教室のほうから、生徒達のにぎやかな声が耳に届く。ひどく寂しい気持ちになりながらも、意を決してゆっくりと顔を上げる。その部屋のドアを瞳に映す。
「……そう、だよなあ……」
 何の変哲も無い、教室のドア。スライド式の、フチが鉄で出来た、木製のドア。そこには、ワープロ打ちで大きく「立ち入り禁止」と書かれた貼り紙がしてあった。
 ハァ、と息をつく。殺人未遂事件の現場をそのまま放置しておく教育機関は無いだろう。血しぶきは、教育に悪い。それを流した僕そのものの姿ですら、周囲に悪影響を与えているのだから。「立ち入り禁止」の太い明朝体の文字は、なぜだかそんな僕を無言で責めるような、無機質な威圧感があった。
 絶望にも似た自虐の中、さっきまで張り詰めていた気は緩んでしまった。特にお腹はすいていないけど、早く教室に戻ってお弁当を食べよう。5時間目は体育だし、確か今日のお弁当はおばあちゃんお得意メニューの枝豆とひじきの肉団子が入ってるって――
 そんなことを考えながら、無意識に、ドアの取っ手に手を伸ばしていた。立ち入り禁止の部屋に鍵がかかっていないわけがないよな、と確認しようとしたのか。――だが、カタ、と動く手ごたえがあって、
「――――っ!!」
 バッと手を引く。引いた指先から腕へ肩へ全身へ、鳥肌が広がっていく。急に、嫌な汗がどっと湧いてくる。わずかに、手を離したら戻ってしまうくらいわずかに、ドアが開いたのだ。
「なっ、まさか、これ……」
 このドアは鍵がかかってないのか? それとも、立て付けが悪いだけか?
 ほんの一瞬、わずかに開いたのが目に入っただけなのに。焦点も合わせずに視界に入っただけの闇に、とてつもない恐怖と嫌悪感が湧いた。手を引いた状態のまま、固まる、いや、指先がぴくりと動く。これは僕の意思なのか? もう一度、確かめるべきか、開いてしまったらどうするんだ、中はきっと血塗れかもしれない、いや、犯人が僕を待ち構えているかもしれない、包丁をかまえて、なのに、僕は、僕は。どうしよう、どうすれば、どうしたら――
「どーしたんですかぁ?」
 その時。後ろから、ピアノの高音域を叩いたような声がかけられた。
「えっ……」
 びくりとして振り向くが、誰も居ない。さっき降りてきた階段が見えるだけだ。
 ……いや、ゆっくりと首を前に折り曲げると……居た。僕の胸よりも下に頭があるくらいに、小さな女の子が。
「あ……えっと……」
「せんぱいすごい汗だよ。どっか具合悪いの?」
「え? あ……」
 くりくりとした大きな目で、見上げてくるその子。あっけらかんとしてフランクなその調子に、先ほどまでの恐怖とは別のベクトルでとまどい、面食らってしまう。せんぱい、と僕を呼んだとおり、その子の上履きの色は一年生の色だった。
「あ……っと、大丈夫、だよ。ありがとう……」
 やっとのことでそれだけ言うと、その子はにっこりと笑った。そして何も言わず、軽そうな体を元気に跳ねさせて、階段を駆け上がっていった。
 鎮静剤が効いてきたように興奮と悪寒が引いてくるのを感じながら、僕はその姿を見送った。見えなくなるとひとつ深呼吸をして、後ろの部屋を振り向かないまま、そそくさと自分の教室に戻った。恥ずかしかった。何やってるんだろう僕は。一人で事件現場に来て、一人で錯乱して、通りすがりの後輩の女の子に心配されて。

 5時間目の体育は、男女ともにバスケットボールだった。体育館の真ん中をネットで仕切って、男子は男子、女子は女子で試合を行う。その中でまたいくつかのチームに振り分けられて、時間制限をつけて総当り戦を行っていく。出番を待って、体育館のひんやりとした木の壁に背を預けていたところ、女子側のコートから歓声があがった。そちらを見てみるも、仕切りのネットのところに男子までもが固まって向こうのコートに釘付けになっていて、何が起こっているのかよくわからない。
「? なんだろう……」
 隣の勇美に聞くと、「ああ、デコデコじゃないか?」と言った。そして二人でネットのところへと移動して見に行ってみると、勇美の言うとおり、椎菜さんとルイさんが威勢よくコートを駆け回り、ボールを運んでいた。すさまじいコンビネーションでパスを回し合い、相手方を撹乱する二人。とはいえ二人でボールを独占しているわけでもなく、適当なところで同チームの子にも頼っている。まさに優等生のゲームだ。
 椎菜さんは機動性重視のためか、いつもは下ろしている長髪をポニーテールにしていて、激しく動くたびにそれは流れるように揺れている。
「すごいな、ドリブルしながらあんなに速く走れるものなんだ……」
 ルイさんの動きの精密さも、さすがはバスケ部、といった貫禄がある。動きだけでなく、判断が素早い感じがする。相手方を振り切ってシュートに持ち込むかと思えば、前触れも見せずにバックパスをする。そしてそのパスの先には、しっかり椎菜さんが待ち構えていたりする。僕は、思わずそのプレーに見とれてしまった。
「かっこいいなあ、二人とも……」
「野生に戻ったほうがいいんじゃないのかあいつら」
「ま、また勇美はそんなことを……」
 僕達と同じくネット越しに観戦している男子達からも、野次まじりの声援が飛ぶ。
「行けーデコデコー!」
「いいぞ、デコデココンビ!」
 二人の耳にこの言葉が届いていようと、怒る余裕は今は流石にないだろうなあと思った。
「さすが、三宅と委員長はツートップだな」
「相手チームは悲惨だよな、よりによってあの二人がセットで入ってたら……」
 そう話す声もある。僕も、同意だ。大げさなようだが、あの二人が敵に回ってしまったら運が悪かったとしか言いようがない。そう思い、相手方のゼッケンをつけている女子を見回してみる。……その中には、攻撃の輪に入れずに、半ば立ち尽くしている香坂さんがいた。
「美雨ちゃーん、がんばれ〜」
 いつも香坂さんと一緒にいる友達が、コートの外から気楽な声援を送っていた。当の香坂さんはおろおろするばかりである。と、その時、不運にも(?)香坂さんのところにボールが飛んできた。
「あっ……」
 慌ててボールをキャッチする。が、どうしてよいかわからない様子で立ちすくんだスキをついて、勢いよく走りこんできた椎菜さんにボールをはたきおとされてしまった。
「香坂さん、ちょっとごめんねぇ〜!」
 そう言って、そのままボールを奪い取っていった椎菜さんに対し、香坂さんはビクリと身を竦めただけで何もできなかった。
「こらーデコ委員長! 香坂さんをいじめるなよー!」
 先ほどの声援が一転して、ブーイングに変わる。
 弱いところを突くのはスポーツの試合の基本なのだから、椎菜さんに非は無い……はずなのだが、こと香坂さんが相手となると、男子達は黙って見過ごせないらしい。香坂さんってやっぱりモテるんだなぁ、と漠然と再確認した。一方の椎菜さんは、勇美によって「理性と闘争本能が両立している女だな」と、良いのか悪いのかよくわからない評価を下されていた。
 そうこうしているうちに、僕のチームの試合の番がやってきた。何だか、あの二人のプレーを見た後では、やる気が起きない。僕は体育が得意科目というわけでもないし、こういう激しい点の取り合いをする試合というのはどうも苦手である。スポーツにそんな争い嫌いの精神を持ち出すのもナンセンスだとは思うけど、どうしてもそう感じてしまうのだから仕方ない。きっと割り切って……いやむしろ楽しんで戦っているのだろう椎菜さん達に比べて、僕は情けないなぁと思った。
 試合が始まり、何分か経過する。……違和感を感じる。なんだか妙に、僕の方によくボールが回されるのはなぜだろう。受け取っても無難にパスをつなぐくらいしか出来ていないのだが、もしかしたら、背が高いせいでバスケに強いと勘違いされてるのではないだろうか。
 味方チームから一本シュートが決まり、区切りのついたところでふと横を見ると、今度は女子のほうがネット越しに男子の試合を見ているのに気付いた。
「なんだか、見られてるとやりにくいなあ……」
 試合時間も残りわずかになる。コート中央とゴールの中間あたりで、また、パスが回ってきた。
 ああどうしよう、とりあえずゴール近くまでドリブルして……と判断している時、横から、
「都築くん、シュートよ〜!!」
 と、元気で呑気な声が浴びせられた。
「――――っ……!?」
 その声につられて、背の高さにまかせ、遠くのゴールめがけてシュートしてしまう。…………入った。
 そこで、試合終了の笛が鳴った。息を切らせながら、信じられないような気持ちで得点板を見る。
「すごいな、都築。逆転勝ちだ」
「やっぱり、タッパある奴がいると助かるな」
「今の位置、NBAのスリーポイントライン並みだったぞ? すげー」
 チームメイトが労ってくれるのに自分でも驚くくらい嬉しい気持ちで応えながら、先ほどの声の主が「いやー本当にあそこで打つとは思わなかったわ!」なんて話しているのを耳にする。
「…………椎菜さん、ああいう切羽詰った場面で……ああいう冗談は……」
 息が上がったまま、ネット越しに椎菜さんを睨む。
「んー、でも結局入ったんだからいいじゃない! 結果オーライよ。都築くん、すごいすごい」
「あのね……」
 コートでは既に次の試合が始まっていた。未だどくどくと盛んに脈打っている心臓を鎮めようと、呼吸を整えていく。それでも心臓というポンプは容赦なく、激しく血液を送り出していく。
 生きよう、生きようと、充溢した体の機能。でも、充溢し切った先に待っているのは、結局、
「――都築くん?」
 一瞬、目の前を闇が走った。あの部屋、の奥と同じ色の闇。
 あのドアを開けようとしてしまった時のように、指先がピクリと動く。
「都築くん? どうしたの!?」
 椎菜さんの声が、頭上からかかる。膝はいつの間にか床に落ちていた。脳裏には、黒地に負けないくらいに濃く鮮やかな赤い染みが緩慢に広がってゆく。心臓を鎮めようとしているはずなのに、鼓動は速く――そして、不規則に乱れていくような気がする。乱れて、乱れて、壊れてしまったら?
 ……僕は頭を垂れて、両手で顔を覆った。
 悪夢のような眩暈に耐えている間、心に浮かんでくるのはなぜか、あの部屋の前で会った小さな女の子のことだった。

 体育の先生に連れられて行った保健室で、軽い貧血と診断され、具合が良くなるまでそのまま休んでいくことになった。まだ汗も乾ききっていない体操着姿のまま、固いベッドに横たわる。自宅以外のベッドで寝るのは何週間ぶりだろう。入院していた病院のベッドのほうがもう少し柔らかくて真っ白な清潔なベッドだったけど、このベッドのくすみは何年もこの学校の生徒が使ってきたんだということを感じさせ、不思議に安らいだ気持ちになった。
 保健室は日当たりがよく、ガラス越しに午後の日差しが優しく降り注いでいる。仕切りのカーテン越しに、養護の先生が何か書き物をしているカリカリという音だけが聞こえる、静かな部屋。外からは小さく水が流れる音と、小鳥の鳴き声と、遥かかなたで飛行機が飛んでいく長い音がする。それらを聴きながら目を閉じ、力を抜いてベッドに体を沈ませる。すっかり穏やかになった体は、ゆるやかに眠りに落ちていった。
 やがて、チャイムの音で目が覚めた。今のチャイムが授業の始まりを告げるものなのか終わりを告げるものなのか、わからない。そもそも、今は何時間目なのだろう、と思って、もぞもぞと体を起こす。先ほどのだるさは綺麗に消えていた。
 僕の気配に気づいたのか、サッとカーテンが開かれ、養護の先生が姿を見せた。
「気分はどう? 6時間目も休んでいく?」
 先生の言葉とにぎやかになり出した廊下の様子から、今のチャイムは5時間目終了のものだったんだ、とわかる。僕はまだ30分も寝ていなかったんだ。
「いえ、もう大丈夫なので戻ります……」
「そう? 無理しないでね」
 一見クールそうに見える女の先生が、僕をいたわるように言う。中学のときの保健室の先生は生徒が来ると必要最低限の処置をして「このくらい我慢しろ!」とさっさと教室に帰していたことを思い出して、何だか随分違うなと思う。でも、こんな傷だらけの僕では、過保護にしたくなってしまっても仕方ないのかもしれない。
 廊下から、バタバタと全速力で走っているとしか思えない足音が聞こえる。よくもまあそんなに容赦ない校則違反が出来るなあと感心してしまうくらいの音である。
「……ん?」
 その音は、心なしか、こちらに近づいてきているような――
 半ば乱暴なほど豪快にドアが開かれる。そして、急なブレーキでポニーテールをばさりと揺らした椎菜さんが現れた。
「都築くんは大丈夫ですかっ!?」
「し、椎菜さん!?」
 椎菜さんはベッドに座ったままの僕の姿をみとめると、一目散に駆け寄ってきた。
「都築くん、もう大丈夫? どこか痛くない? 苦しくない?」
 息を切らせながら、ベッドに身を乗り出してまくしたててくる。その形相は必死で、表情は悲痛で、僕はぽかんとそれを見つめた。
「大丈夫よ、彼はただの貧血だから」
 先生も、目を丸くしながら椎菜さんをなだめる。
「貧血……。すごく具合悪そうにしてたから、くも膜下出血かと思っちゃった……」
「そ、それは無いよ……」
 僕が笑みを作りながら否定するも、椎菜さんはあくまで真顔だった。真顔過ぎて、どう反応していいかわからない。なんでこんなに心配してくれているのだろうか。
「椎菜さん、大丈夫だよ。そんなに心配しなくて……」
 とりあえずそう言うと、椎菜さんはじっと僕の目を見て、
「…………だって」
 くしゃり、と、泣きそうな顔をした。
 ――――別の意味で眩暈がした。この表情と、声。僕が、椎菜さんを――傍らに先生が居るにも関わらず――抱きしめたくなってしまうなんて。

 6時間目の授業は日本史だった。体育のあとでだるそうにしている人が多い中、椎菜さんは何事も無かったかのように背筋を伸ばして授業を聞いていた。……何事も、無かったかのように。
 僕はというと、さっきの感覚が胸に残り、忘れられないでいる。あれは一体、何だったのだろう?
「……女の子って、わからない」
 一般論めかして考えてみても、僕にとっての“わからない女の子”とは、椎菜さんと、香坂さんだけだが。と、隣の香坂さんをちらりと見てみると、香坂さんは既にこちらを見ているので、ビックリした。なんて珍しいんだ、雪でも降るんじゃないのか。いつもはうつむいて目をそらしているのに、今日は控えめな様子ながらも、僕のほうをじっと見ている。僕がそれに気付いても、表情さえ変えない。
「えっと……何? 香坂さん」
 小声で訊いてみる。すると香坂さんは、不審がられているように感じたのか、かすかにばつの悪そうな顔をした。
「……あの、都築くん……大丈夫だったの?」
「え?」
 思わず、目が点になる。
「あの、体育のとき、具合悪そうに……」
「…………」
 意外だった。まさか、香坂さんがそのことを気にして、しかも口に出して言ってきてくれるとは。もし社交辞令みたいなものだとしても、素直に嬉しい。
「あ、うん、ただの貧血だった。もう大丈夫だよ」
「そう……」
 香坂さんはすぐに前を向いてしまった。
 傲慢かも知れないけど、気にしてもらったことに対してお礼を言うタイミングを逃してしまった。ああ、そういえば、椎菜さんにも言ってなかった。あんなに心配してくれていたというのに、どうして今頃になって気付くんだ。
 再び、椎菜さんに目を向ける。もう制服に着替えて、髪の毛はもとのように下ろしているが、ポニーテールにしていたときのクセが少し残っている。そしてまた、香坂さんに視線を戻す。相変わらず無表情で、でも、少し目を伏せているようだった。
 一年生のときも僕と同じクラスだった、この二人の女の子。久世椎菜さんと、香坂美雨さん。何を考えているのかよくわからないけれど、二人は僕自身が知らない僕の過去を、多かれ少なかれ知っているのだろう。
 女の子の頭の中に残存する、失われた僕の過去。それを思うと、奇妙で、そして甘いような不安定さを感じる。

「椎菜、ものすごい勢いで飛んでったでしょ」
 ルイさんが軽く笑いながら話しかけてくる。6時間目が終わり、帰りのHRが始まるまでの短い休み時間で、当の椎菜さんは教室を出ていた。
「ああ、体育のあとだよな。うん、本当にすごい剣幕で保健室に飛び込んできたから、びっくりしたよ。……なんでそんなに心配してくれるのか、よくわからなかったけど」
 彼女の親友に、つい本音を漏らしてしまう。すると、ルイさんは口の端を上げた。
「なんでってそりゃ、椎菜が都築くんを心配だったから心配だったんでしょ」
「…………」
 トートロジーのようでいて、なぜか絶対的な説得力のこもったルイさんの言葉。なんとなく僕は、下を向いてしまう。
「でもね、椎菜もあれで耐えたほうだと思うよ」
「……え?」
「都築くんが保健室行ってから、今すぐにでも飛び出して行きたいって顔してたもの」
 ルイさんのその言葉に、顔が、熱くなるのがわかった。
 ――今すぐにでも飛び出して行きたいって顔してた――……。
 また、あの時の、椎菜さんの泣きそうな表情が甦って来て、胸が切なくなる。
「まあそれでも、授業が終わるまではそれが出来ないあたりが椎菜なんだけどね。秀才はそういうとこある程度、自然に自分を制しちゃうのよ」
「うん……」
 椎菜さんはしっかりしていて、親切で、頼りになる委員長。だから僕だけじゃなく、クラスの仲間なら誰に対してもああやって心配してくれるのかも知れない。でも、ただ、あの時の表情は確実に、僕だけに向けられたものだった。そのことをもう少しだけ、密やかに噛み締めていたい。
 もう、あの第二理科実験室に行くのはやめよう。今日のように自分を保てなくなってしまったら、また椎菜さんや香坂さんに気を遣わせてしまう。……そういえば、椎菜さんは、僕が保健室に行ったくらいであんなに心配してくれていたのなら。半年前に僕が切り刻まれたときは、一体どんなふうに思ったのだろうか。






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