五.ロケット




 廊下の掲示板に、春の実力テストの成績優秀者一覧が貼り出された。その前にはクラス発表のときと同じように人だかりができていて、後ろの方にいる人は一生懸命背伸びをして目を細めている。だが僕の場合は、この身長の格好の使いどころである。
「えーと、英語1位、数U1位、数B2位、国語2位、総合1位……」
 怒涛の成績に顔が引きつりそうになりながらも、隣にいる椎菜さんに読み上げて伝える。頼まれて、彼女の順位をチェックしているのだ。周りの人がやたらとこちらをジロジロ見るのは、人ごみの中に傷だらけの僕がいるせいなのか、学年トップの椎菜さんがいるせいなのか。
「あら、今回の数Bは自信あったんだけどなー。1位にはたぶん、神尾くんか田辺さんか林くんあたりが来てると思うんだけど……」
「うん、1位は2年B組の神尾つかさ、って書いてあるよ」
「うーん、やっぱり理系の人にはなかなか敵わないわ……」
 椎菜さんはブツブツ呟いている。“理系の人”っていうけど、椎菜さんは一体どっちなんだろう。“敵わない”っていうけど、椎菜さんだって2位じゃないか。なんだかレベルが高すぎてついていけない。
 僕の成績はというと、中の下程度である。入院していたせいもあるけど、平均点くらいは取れるようになりたい。勇美もルイさんもそれなりに出来るようだけど、ここはやはり椎菜さんに教えを乞うべきだろうか。
 教室に戻ろうと振り返ると、後ろにある学年会議室の前に、二人の女の子がいた。何やら、ドアの隙間から中を窺っている。その子達は、いつも香坂さんと一緒に行動している友人の女の子――水谷さんと、東海林さんだ。
「ん? 何やってるの? 二人とも」
 椎菜さんも二人の様子を変に思ったらしく、声をかける。二人は唇に人差し指を当てて振り返った。
「久世さん、それに都築くん。今ね、美雨ちゃんがここに呼び出されてるんですよ」
「呼び出……?」
「たぶん、告白だと思う〜」
 二人がひそひそ声で答える。
 告白。告白って、香坂さんが、されるんだよな。一体、どんな反応をするんだろう。いや、僕がこんな場に居てしまっていいのか。好奇心と罪悪感とが入り混じった、変な気持ちになる。
「あーもう、勝手に会議室使って。まったくー」
 僕がどきどきしている傍らで、椎菜さんは相手の男子の悪態をついていた。
 ドアの隙間からは確かに、香坂さんと誰か知らない男子が話しているのが見える。いや、男子のほうが一方的に、彼女に何かを話しかけている。香坂さんは僕の隣に座っているときと同じようにただうつむいて、困ったような顔をしている。
 何を話しているかはよく聞き取れないが、男子のほうが詰め寄るように香坂さんへと一歩近づく。香坂さんは、後ずさりする。
「あ、アレ、大丈夫……?」
 椎菜さんもさすがに心配になってきたのか、眉をしかめる。
 そのとき、男子が香坂さんの両肩をぐっと掴むのが見えた。あ、と思った瞬間、
「よし、そろそろ行きましょう」
 水谷さんが言って、ガラリとドアを開け、東海林さんと二人で入っていった。そして、慣れた様子で香坂さんを男子から引き離し、手を引いて連れ出した。取り残された男子は、恥ずかしいような悔しいような、複雑そうな表情をしている。
 会議室の外へ出てきた香坂さんは顔を上げると、「なんでここにいるの?」と問いたげな表情で僕と椎菜さんを見た。
「もう。美雨ちゃんもキッパリ自分でお断りできるようにならなきゃダメですよ?」
「う、ん……」
 C組の教室へと戻りながら、水谷さんが穏やかな口調でたしなめると、香坂さんは少ししょげたようにうつむいた。
「なんだか水谷さんも東海林さんも慣れてる様子だったけど……今までにもこういうことあったの?」
 椎菜さんが尋ねると、東海林さんは指折りをし始めた。
「うーん、1年のときから数えると10回はいくかなあ。中学のときからだと、もっともっと」
「わ、すごい」
 香坂さんは1年ちょっとで10回もこんなふうに告白されているのか。椎菜さんとは別の意味で、世界が違う。でも香坂さんは控えめな人だと思うので、異性にこうやって呼び出されて二人きりになって告白されるなんて、ものすごくプレッシャーなんじゃないかと思った。教室で自分の友達以外と喋っているのだって、めったに見ない。
 まあ、香坂さんに惹かれずにはいられない男心というのも、よくわかるけれど。それだけ香坂さんには、ズバ抜けた美貌がある。
 椎菜さんは香坂さんに寄り添い、
「しっかし、さっきの奴みたいなのは危険ねー。いきなりあんなふうに体に触ってくるなんて、けしからんわ〜。香坂さん、危なくなったら目潰しでもして逃げるのよ」
 などと、アグレッシブな話をしていた。本当に危なくなったら、それも一つの有効な手段だとは思うけど、香坂さんは椎菜さんじゃないのだから、そんな強気に出られるだろうか。……正直な話、椎菜さんも黙っていればけっこう可愛い女の子だと思うのだけど、可愛いだけじゃ身は守れないよな。
 椎菜さんも香坂さんも、体格は殆ど一緒だ。隣り合った二人に確固たる連帯感のような、でも決定的な違いとも言えるような――そんな矛盾したものの存在を感じる。


 翌日は、ゴールデンウィークの一日目だった。だが僕はどこへも出掛けず、自分の部屋で、勇美とくすぶっていたりする。勇美には一歳上のとても怖いお姉さんがいるのだが、家に居て何か無理を言い出されるのが嫌なので、先手を打って僕のところへ逃げてきたようだ。
 そして、僕との共有財産であるかのように僕のベッドに寝転び、くつろいでいる。僕はというと、勉強の遅れを取り戻すために入院していた頃の学習範囲を復習をしたり、階下へ降りておばあちゃんやおじいちゃんの手伝いをしたり、本を読んだり、勇美の相手をしたりとぐだぐだ過ごしている。窓の外は気持ちのいい五月晴れだというのに、男二人、屋内で何をやっているのだろう。
「自分の家にいるのが嫌なら、彼女とどっか行けば良かったんじゃないのか?」
 妬みまじりで言うと、勇美は何でもないことのように「彼女? えーと、梨佳……いや、苑実のことか? とっくに別れてるけど」と返した。
「…………。勇美は、モテるくせに長く続いたためしが無いな……」
「俺は相手に合わせたりしないからな。それよりもお前は自分のことを気にしろよ」
「……余計なお世話だよ」
 僕はきっと世間一般で言う晩生というやつだろう。それに加えてこの傷だらけの風貌では、色っぽい話には縁遠くなっても仕方ないと思う。……しかし、そのわりには最近、女の子と接する機会は多い気がする。と言っても、その大半は椎菜さんだが。
 おばあちゃんが上がってきて、僕と勇美にとレモンティーを置いていってくれた。それを啜りながら、勇美はふと何かを思い出したように「……あ」と声を出した。
「なんだ?」
「確かうちには今朝親戚から送られてきた大量の苺があったな……もしかしたら、姉貴がここにおすそ分けに届けにくるかもしれん」
 いつもの無表情をかすかに歪めて、深刻そうに言う。都築家と天野家は家族ぐるみで仲がいいので、そういうおすそ分けや旅行のお土産なんかは、昔からよく届け合っていた。それを考えると確かに、勇美のお姉さんがうちにやって来てもおかしくない。
「いいじゃないか、別に」
「いや、はち合わせたら機嫌悪くされる恐れがある。逃げるぞ、風」
 そう言って、立ち上がる。
「どうして俺まで……。そんなに糖子さんと会うのが嫌なのか?」
「嫌だ」
 ため息をついて、僕も立ち上がる。
 さも乗り気でないようにして見せたものの、実は外に出て気分転換したくもあったので、丁度いい。こんな天気のいい休日に部屋にこもっていたら腐ってしまいそうだ。
 空のティーカップを、台所に居るおばあちゃんに届ける。おばあちゃんが出掛ける格好の僕を見て「あら、二人でどこか行くの?」と訊くので、行く場所は未定なのだが「ちょっとその辺まで」と言っておいた。
「勇美くん、風ちゃんをよろしくね」
「はい。ご馳走様でした」
 礼儀正しくおじぎをする勇美。つき合わされてるのは僕のほうなのになぁと思いつつ、家を出た。
 
 揺れる桜若葉を透かして、5月の陽の光が小道に射す。行く当てもなく、とりあえずいつもの通学路をぶらぶら歩く。
「これからどこ行くんだ?」
「風が行きたいところでいいよ」
「連れ出したのは勇美のほうだろー。勇美が決めろよ」
 この街は都会か田舎かと言われれば、田舎寄りだと思う。買い物を楽しめる程度に、それなりに多種多様なお店はあるものの、中学の修学旅行で行った東京と比べるとやはり格が違う。自然は豊かでちょっとした観光地にもなるほどだが、空が広いぶん建物は少ない。
「……公園……は、狭すぎるな、お前の体じゃ。滑り台よりも背高いんだから」
「そんなには高くないよ、たぶん……。ほら、早く決めろよ。このままだと学校に行っちゃうだろ」
「じゃあ、学校でいいじゃないか」
 勇美はそう言って、歩みを速める。僕は呆れながら追いかけつつも、少し安心していた。この傷で駅前の遊び場なんかに連れ出されたら、またたくさんの人に変な目で見られてしまう。もしかしたら勇美も、さりげなく気を遣ってくれたのかもしれない。
 学校脇の坂道を上ると、やはり校門は施錠されていなかった。校舎に沿って、またあの桜の木のほうへと向かう。椎菜さんと会ったあの春の日と同じく、閑散とした校内。上の、音楽室のあるあたりから合奏になっていない管楽器の音が聴こえるが、ブラスバンドが休日練習でもしているのだろう。いくつもの個人練習の音が重なったそれをバックグラウンドミュージックにして、路地を散歩した。
 新緑の輝きは目にまぶしく、貯水池がちゃぷちゃぷと風に揺れる音は優しい。勇美も、普段とは違った学校の様子を味わうように、周りを眺めながらゆっくりと歩いている。
 ああ、一緒に過ごす彼女なんていなくても、こういう休日もいいかも知れない。気の置けない友人と自分だけの平和な空間だ、だからきっと、一瞬、視界の端に長い髪の女の子が映ったような気がしたのも、きっと錯覚だろう――……
「……なんだ、あの奇行は」
 思ったのに、勇美の言葉が容赦なくそれを否定してしまった。
「……何してるんだろうね……」
 遠くに見える中庭のほうで、珍妙な装置をせこせこといじっているのは、まぎれもなく椎菜さんだった。少し離れた花壇のふちにルイさんが座って欠伸をしているのも見える。
 なんというか、脈絡が無さ過ぎる。いや、別に椎菜さんがいつどこで何をしていようと勝手なのだが……勝手すぎやしないか、とまで感じてしまう自分がいる。
 椎菜さんもルイさんも、ジャージ姿だった。自転車の空気入れの先に長い管が取り付けられていて、その管には、地面に固定された透明で細長い容器が繋げられている。椎菜さんがカシャカシャと空気入れのレバーを動かすと、その容器は空気の抜ける長い音を立てながら、勢いよく空に飛んでいった。それを見た椎菜さんは手を叩いて喜び、ルイさんは背伸びをしながら空を眺めていた。
「――あれっ!? 都築くん、天野くん! なんで学校にいるの!?」
 近づいてきた僕らに気がつき、椎菜さんは驚いた声をあげた。ルイさんも「あらホントだ」とこっちを見た。
「いや……ちょっと。それよりも椎菜さん、何してるの」
「知らないの? ペットボトルロケットだよー」
「いや、それは見ればわかるけど……」
 この人の思考回路は謎だ。
 ルイさんに目線で説明を求めると、僕達の心中をうまく察してくれたのか、淡々といきさつを話してくれた。
「あー、今日、バスケ部の休日練習があってね。今度の練習試合に椎菜にも助っ人としてちょっと出てもらうから、来てもらったのよ。で、終わった後で、椎菜が“せっかくだから、普段学校ではできないことをやって行きたい”って言い出してさ。ちゃっかりこのロケットも用意してきてたのよね」
「うん。家で作ってきたのよー」
 椎菜さんは得意げに微笑む。
「秀才とバカも紙一重なんだな……」
 勇美がぼそりと呟く。何それ、というふうに椎菜さんは怒ったが、勇美と僕が白い目で見てくるのに耐えられず、言葉を詰まらせてしまった。そして、いたたまれなくなったのか、矛先を変えようとする。
「それよりも、二人こそ何してるのよー!」
「俺達はただ何となく散歩に来ただけだよ。家にいてもやることないし……」
 一応、勇美の名誉のために、お姉さんから逃げてきたことは伏せておく。すると椎菜さんは改めて僕の顔を見上げ、
「せっかくのお休みなのに、なーに言ってんのー。都築くん、香坂さん誘って映画でも行ってくればいいのに」
 なんてことを言い出した。
「なっ……!?」
 いきなり何を言い出すんだこの人は。なんでそこで香坂さんが出てくるんだ。……抗議したい、けど、勇美とルイさんのいる前でまた何か余計なことを言われそうなので、ぐっとこらえる。
「…………」
「…………」
 勇美もルイさんも、冷やかすでもなく何も言わずにじっとこちらを見てくる。それが逆に、僕を不安にさせる。
「……何?」
 覚悟を決めて訊いてみるも、
「……いや」
「別に……ねえ」
 二人は表情を変えずに、僕と椎菜さんを交互に見ただけだった。椎菜さんも、その二人の様子にきょとんとする。
 この妙な雰囲気を破るように、上から、オーケストラの演奏が聞こえてきた。個人練習の時間が終わって、全体で合わせ始めたのだろう。少したどたどしい演奏ではあるが、とても綺麗で雄大なメロディーに、思わず耳をすませた。確かこの曲は「稲穂の波」だったか。
 止めてはやり直し、止めてはやり直しを何度か繰り返したあと、音は消えた。練習が終わったようで、窓際で部員らしき人たちが動いているのが見えた。誰かが窓を開けて、顔を出す。その人を見て、椎菜さんは大きな声で呼びかけた。
「水谷さーん!!」
「あれ? 久世さんー?」
 椎菜さんの言うとおり、その人は香坂さんの友人の一人、水谷百合乃さんだった。彼女はブラスバンドに所属していたのか。
「なんだかうちのクラスの人がいっぱいいますねー」
 そう言いながらこちらを見下ろすと、椎菜さんと同じくらい長い彼女の髪がこちらへ向かって垂れた。
 数分して、水谷さんはカバンを持って僕達のいるところへやって来た。
「どうしたんですか〜? 皆さん」
「ルイはバスケ部、私はその助っ人。都築くんと天野くんは二人でお散歩だってさー」
 椎菜さんが言うと、水谷さんは僕と勇美を見て「ふふ、本当、私服姿ですねー」と、柔らかく笑った。水谷さんはこう、お嬢さんっぽい物腰ではあるものの、香坂さんよりは遥かに外向的だと思う。まるでお母さんのように、内気な香坂さんとのんびり屋の東海林さんを引っぱっている姿をよく見る。おっとりしているながらも、あの3人組の中では必然的にリーダー役になってしまうのだろう。
「ブラバンってコンクールは夏よね。なのにこんな早い時期から休日練習あるの?」
 ルイさんが水谷さんに問う。
「はい。予選に出すためのテープなんかも、来月までには用意しなくちゃいけませんし」
「予選かあ。文化系も大変なのねー」
「来年は大学受験ですから、今年は精一杯やりたいですしねー」
 文化系か体育系かの違いこそあれ、二人には通じ合うものがあるようで、うんうんとうなずき合う。帰宅部の僕には無い世界だ。
「でも、部活があると、友達と一緒に登下校できないのがネックですよね。私も美雨ちゃんや薫ちゃんと一緒に帰りたいんですけど」
「あ、そっか。香坂さんも東海林さんも帰宅部なんだもんね」
「はい。……でも最近は、下校は二人もバラバラらしいですけど」
 水谷さんは、そんな意味ありげなことを言う。椎菜さんが「え、なんで?」と尋ねると、上品な仕草で首をかしげた。
「薫ちゃんが一緒に帰ろうって誘っても、何か用事があるとかで、フラリとどこかに消えちゃうらしいんですよ、美雨ちゃん。中学のときはそんなこと無かったんですけどねー。何やってるのかは、私達にも教えてくれないし……」
 仲良しの水谷さんや東海林さんにも話せない、香坂さんの秘密。一体なんなのだろう、と気になってしまう。
 と、椎菜さんがいきなり僕の腕をくいくいと引っぱってくる。
「――だってよ、都築くん」
「……だから、何さ」
「何さじゃないわよ、気になるでしょう? もしかしたらここに、頑なな香坂さんの心を解きほぐす鍵が隠されてるのかも知れないわっ」
「………………」
 ……また、そういうことを言い出す。なんで香坂さんが僕に対して頑なだって知っているのだろう、椎菜さんは。
 水谷さんは一瞬きょとんとした後、そういうこと、と言わんばかりの表情をして僕を見た。
「あらー、都築くん、もしかして……」
「え? ち、違うよ、椎菜さんが勝手なこと言ってるだけで……」
 慌てて否定する僕の横で、椎菜さんは笑いながら「照れ隠し照れ隠し」なんて言っている。
「椎菜さん!」
「うちの美雨ちゃんは引っ込み思案だけど優しくていい子なんで、よろしくお願いしますねー。都築くんなら昨日の男の子みたいに無理強いはしなさそうだし、応援しちゃいますよ〜?」
 水谷さんは、椎菜さんの言い分を採用したようで、僕はがくりとする。ああ、もう。冗談まじりだとわかっていても、耐えられない。今はとりあえず、とにかく何よりも当の香坂さんにそれらしいことを言うのだけはやめてくれ、と頭を下げる。水谷さんは笑って「了解です」と言った。
 諸悪の根源である椎菜さんは、「親御さんの許可が下りたわねー」なんて言って、呑気に笑っている。まったく、大体どうして椎菜さんは、僕と香坂さんをくっつけたがるのだろう。なんだか無性にイライラする。人の気持ちを勝手に決め付けて、とか。他の人がいる前で誤解されるようなことを言ったりして、とか。……いや、そのどっちもある。けど、どっちも肝心なところではない。肝心なところではなくて――
「ん? なに?」
 僕の思惑を知る由も無い椎菜さんを、見つめる。
 ふと、彼女が保健室に飛び込んできた“あの時”の顔がよみがえり、オーバーラップする。
「……やっぱり、俺の思い過ごしだったな…………」
「え? え? 何よう」
 “あの時”。椎菜さんを抱きしめてしまわなくて良かった。二重の意味で、そう思った。
 
 連休も明け、再び学校に通う日々が始まった。この連休というのは人々に活力を与えるのだろうか、それとも反動で五月病を増幅させるだけなのか。僕はまた放課後、栗原先生に職員室へと呼ばれていた。この時期もやはり、生徒指導には重要な時期なのかもしれない。
「始業式から1ヶ月たったわけだけど、どう? 都築くん。学校行きたくない〜とか、そういうのはある?」
「いえ、特に。大丈夫です」
 学校に行かずにいられれば楽だろうというのは勿論ある。それは皆同じだろう。だが、僕の場合はこの傷を見られる辛さというハンディがある。……でもそれは気の持ちようで何とかしていけるだろうと思い、先生の前では平気なフリをしておく。いつか、本当に平気になれる時が来て欲しいと願いながら、今はただ作り笑いをする。
「傷は、痛くない?」
「痛くないですよ、運動もちゃんとできますし」
 痛そうに見えるのだろうか。そういえばいつかの椎菜さんも同じようなことを言っていたな、と思い出す。
「お勉強のほうは……」
「……は、なんとか、ついてこられてる程度ですけど……」
 僕が自信なさげにそう言うと、先生はバインダーに挟んである僕の実力テストの個人成績表を広げて眺めた。
「そうね。半年近くブランクがあっても偏差値45あるなら、まだまだ巻き返しオッケーだわ」
 もう同じものが帰りのHRで配られていたので、これは先生用の控えなのだろう。科目別と総合の点数、平均点、順位、偏差値、その推移のグラフ、標準偏差の載った、細い帯のような成績表。クラスの皆はこれを親に見せるのを嫌がっていたが、僕の場合はおばあちゃん達に見せたとしても、どう読み取ったらいいのかきっとわからないと思う。成績とか進路とか世間体とか、そういうことに関しては無頓着なほうなのだろう。そのせいか昔から僕は同級生達の、テスト結果を親に伝えることを毛嫌いする感覚にいまいちピンとこなかった。あまり良くない点数をとってもおばあちゃんは「頑張ったね」と言い、おじいちゃんは「ちゃんと復習しておくんだぞ」と言うだけだし、周りがどうあろうといつだって僕は「自慢の孫」なようである。
「わからないところは、久世さんに教えてもらおうと思ってます」
 僕が言うと、栗原先生はふくれてそっぽを向いた。
「もー、また久世さん久世さんって。久世さんばっかり頼るんだから」
「え……? でも……」
「ふーんだ。いいもん、どうせわたしなんか」
 教師らしからぬことを口走る先生に、言葉を失う。すると先生はこちらをちろりと見て、
「言ったでしょ。わたしのことも頼ってね、って。先生、都築くんのこと好きなんだからね?」
 と、小さな声で言った。
「は、はい……?」
 栗原先生は度会先生のことが好きなのに、この態度は一体なんなんだ。好き、なんて特に深い意味は無いのだろうけど、あまり紛らわしいことを言い出さないで欲しい。ただでさえ僕は――椎菜さんと、香坂さんのことで揺れているのだから。

 職員室から戻ってくると、もう教室には誰もいなかった。時間はもう4時半をまわっているので、部活や委員会がある生徒くらいしか校内には残っていないのだろう。遠くで廊下を歩く足音や運動系の部活の笛の音が聞こえるが、僕を取り巻くこの空間はただ静かでもの寂しい。開け放たれたままの窓から初夏の風がザァ、と吹き込み、カーテンが大きく翻る。心地よさと寂しさは二律背反ではないのだと身をもって感じ、暫しそれに浸る。
「――さぁ、もう帰るか」
 蛍光灯を消し、カバンを持って教室のドアを開ける。と同時に、中央階段から、誰かがこの階へ上がってきた。そしてその人は、こちらへ向かって駆けてくる。
「……香坂さん?」
 彼女は息を切らせ、僕の前まで来て立ち止まる。おびえた顔をしている。
「あ、の……」
 僕を見て一度立ち止まったものの、すぐに僕の脇をすり抜けて教室の中に飛び込んできた。僕もつられて中に引っ込む。
 香坂さんは全力で走ってきたのか、呼吸を乱し汗を浮かばせている。
「香坂さん、どうしたの?」
「……、……」
「あ、喋れないなら無理しなくていいよ」
 頬を紅潮させ、口を開けて何か言おうとするその様子。そんな状態にまで可憐さを伴わせてしまうこの女の子を見て、神様は不公平だと思いつつ、今はその不公平に感謝したい気分になってしまった。僕が能天気にそんなことを感じている傍ら、香坂さんは焦ったように、僕に何か伝えようとしている。
「あの、ね……あたし……今、男子に追いかけられて――……」
 途切れ途切れにそう言った時、廊下を走る険しい音が近づいてきた。
「男子?」
「あ、見つかっちゃう……」
 香坂さんが、泣き出しそうに呟く。
 とっさに僕は、香坂さんに近づき、
「ごめん」
「――――え?」
 教室の入り口を背にして、彼女を胸元にすっぽりとおさめた。
 足音の主が、ドアから教室を覗き込んでくる。僕は何気なく振り向くそぶりで、顔だけそっちを向く。体の反対側には、香坂さんを隠して。
 その男子は、先日香坂さんに告白していた男子だった。どういういきさつかは知らないが、また彼女に迫っていたのだろうか。男子は、この教室には僕しかいないと判断したのか、また走ってどこかに行ってしまった。
 足音がじゅうぶん遠ざかるのを待って、一息つく。――と同時に、自分がどんなに香坂さんと密着していたか……じゃなくて、香坂さんを密着させていたかに気付いた。くっついた部分に、柔らかいものを感じる。
「――――――」
 香坂さんは、背中に手を回されて、自分の大きな胸が僕の体に押し付け「させ」られているのを真っ赤な顔でぼうぜんと見つめていた。
「――――ごめんっ!! もうしないからっ!!」
 叫んで、バッと体を離したとたん、教室の後ろにあるドアが勢いよく開き、
「もうしないからって何したのー!?」
 と、椎菜さんが現れた。
「わああ、出た――!!」
「何ー!? 人を物の怪みたいに!!」
 今の僕は余裕が無さ過ぎて、椎菜さんの前触れの無さにまでいつも以上に狼狽していた。
 椎菜さんは僕と、離れた距離にいる香坂さんを交互に見て、眉間にしわを寄せた。
「……都築くん、まさか……」
「ま、まさかって何だよ、俺は何も……」
 してない、とは言い切れなくて口をつぐむ。さっき香坂さんにしたことを思うと、あの男子なんかよりも自分のほうがよっぽど危険じゃないか、と自己嫌悪を感じる。
 おずおずと、沈黙を破って香坂さんが口を出してくれる。
「あの……久世さん。都築くんはあたしを助けてくれたの」
「へ?」
「この前の男子に追いかけられてて、かくまってもらったの。……それで……そのとき、ちょっと体がくっついちゃっただけ、で……」
 元から小さい香坂さんの声が、更に小さくなっていく。それと反比例して、頬は再び赤く染まってゆく。
「ああ、何だあー。ごめんごめん」
 椎菜さんは笑って謝る。……軽い。その軽さに僕は、うらめしげな視線を向けてしまう。一体、僕が何をしたと思っていたんだ。
「しかしまたあの男子か、懲りないのねー。都築くん。もう時間も遅いし、香坂さんのこと送ってあげれば?」
「えっ?」
「ほら、また変なのに絡まれちゃうかもしれないでしょ。たくましい男の子なんだから守ってあげなよ。香坂さんも、都築くんなら安心だよね〜?」
 私が行ければいいんだけど、まだ委員会の仕事残ってるし、と椎菜さんはつけたす。何この人はどんどん話を進めているんだ。
 確かに香坂さんのことは心配だけど、彼女からすれば僕と一緒に帰るなんて……と、彼女のほうを見る。すると香坂さんは口元に手をやって、
「……あたしは……都築くんさえよければ……」
 と答えた。意外な答えだった。驚きが大きいあまり、嬉しいとかどうとかいった感情が湧いてこない。
「良かった良かった。じゃあそういうことで。二人とも、また明日ね〜」
 満足げにひらひらと手を振って出て行こうとする椎菜さんを、僕は慌てて引き止める。
「ちょ、待てよ椎菜さん」
「ん?」
「椎菜さんは仕事の後、一緒に帰る人いるのか?」
「いないけど」
「じゃあ椎菜さんだって危ないじゃないか」
 言うと、椎菜さんはきょとんとして僕を見た。
「なんで? 私は別に平気だよ。襲ってくる人なんていないし」
「そんなのわからないだろ。椎菜さんだって、その……」
 いくらしっかりしていても、細くて、柔らかそうで、可愛い、
「……女の子なんだから」
 怒ったように言い切ると、椎菜さんは心底呆れた顔をして、声をひそめ囁いた。
「何わけわかんないこと言ってんの! せっかくのチャンスに余計なこと気にしないの、もう!」
 そう吐き捨て、香坂さんには笑顔で手を振り、さっさと教室を出て行ってしまった。
 わけわかんないこと、って。あの人は、本当に僕の言ったことを理解していないのだろうか。

 日がかげった通学路を、香坂さんと二人で歩く。椎菜さんと帰る時と違って、なんだか緊張してしまう。いつも隣に座っているとはいえ、あの香坂さんが相手である。とびきり美人で、でも口数が少なくて、僕の記憶に唯一残っていた女の子と、二人きりなのだ。
 香坂さんは、矢幡野からは少し離れたところである館森市に住んでいて電車通学だそうなので、駅まで送っていくことになった。うちの高校は徒歩圏内から通う生徒が多く電車通学の生徒は半分もいないのだが、香坂さん・水谷さん・東海林さんの3人組は出身中学が同じため、皆電車で来ているらしい。
 香坂さんは黙って、僕の後ろを歩いている。僕も、何を話してよいものか迷う。本当は、連休中に水谷さんが言っていた、「放課後いつも何をしているのか」が何となく気にかかるが、仲良しの友達にさえ内緒にするくらいのことを僕なんかが訊いては悪いだろう。
「……さっきの男子って、香坂さん、何か関わりあるの?」
 振り向きながら、とりあえずそんなことを訊く。香坂さんは小さく首を振る。
「同じクラスになったこともないの。だけど、何度も付き合ってくれって……」
「香坂さんって、やっぱり人気あるんだね」
 香坂さんと話すせっかくの機会なのに、随分とつまらないことしか言えないなあ、と自分でも思った。
「……どうしてだろう。あたしに、いいところなんて無いのに」
 ぽつりと、卑屈な呟きを漏らす。
「え? そうかな……。俺はまだよく香坂さんのこと知らない……っていうか、思い出せてないけど」
 と、そこで切ったら悪いような気がして、
「すごく綺麗だと思うよ」
 一気に、言ってしまった。素直な気持ちとはいえ思い切りすぎたかな、と不安になる。香坂さんもいきなり言われて困るだろう、と彼女の顔を見る。しかし彼女は翳のある表情を変えないまま、こう言った。
「……よくそう言ってもらえるけど……」
 ……そうだな。彼女ほどの美人なら、小さい頃から同じことを何十回何百回と言われてきて、いい加減慣れてしまっているのだろう。
「そっか、そうだよな」
「でも。あたしが本当にそうだとしても……それだけなの。他には何も無いの」
「え?」
 何も無い、という絶望感のこもった言葉に、どきりとする。
「勉強も運動もあんまり出来ないし、それに……もしあたしと付き合ったりしても、男の子はきっとつまらないと思う」
 一本調子で話しているようで、卑屈になっている様子がうっすらと声色ににじみ出ている。なんで香坂さんはそこまで自分を卑下するのだろう。僕みたいな醜い人間ならともかく、こんなに綺麗な人が。
「そんなことないよ」
「ううん、あるの。だから、あたし……久世さんに憧れてるの」
「椎菜さんに?」
「うん……いつも明るくて、親切で、頼りになって……。勉強も運動もすごく出来るし、1年生のときから、ずっとあんな人になりたいって思ってた」
 ふと、バスケの授業で椎菜さんが香坂さんからボールを奪っていった時のことを思い出した。立ちすくんで、何も出来なかった香坂さん。あの時も彼女は、そんな気持ちを抱えていたのだろうか?
「でも、憧れても、届かないってわかってる。人には素質があるもの。でも……でもね…………」
 香坂さんは何かを言いあぐね、一度僕の顔を見てすぐに目をそらし、
「……なんでもない。ごめんね……」
 夕日の中、悲しそうに呟いた。






PREV/NEXT


MENU